目次



端書き


   東方正教会の聖伝を知る読者は容易に気づくと思うが、本書では「学問中の学問」[*1]である修道についての聖師父の教えを述べた。なお、この教えを現代の要請に対応させてみた。過去と現代の修道が異なる最大の点はこうである。初期ハリストス教の修道士は神の息吹に満ちた師の指導を受けていたが、現代の修道士はまず聖書と聖師父の著書を導きとしなければならない。ソラの聖ニールなど後期の聖師父がそう指摘している。その理由は、神の恩寵を宿した人が極端に少なくなったことである。このような方針とその必要性を説明することは本書の主旨である。

   本書を構成する記事はさまざまな時期に、さまざまなことをきっかけに書いた。中でも主なきっかけは、筆者と信仰上の関係にあった修道士や一般信徒から修徳についてさまざまな質問を受けたことである。地上の旅を終えるにあたり、掌院時代に書いた記事をまとめて見直し、修正加筆し、出版すべきだと考えた[*2]。そう考えた理由は二つある。一つ目は、多くの記事は書き写した形で広まり、誤写が散見されるからである。二つ目は、属神の賜物や恩恵が流れる約束の地である修道生活を観察してきた結果を報告しなければならないと考えたからである。修道生活については、東方正教会の聖伝に学ぶだけでなく、神の摂理によって数名の優れた修道士に出会い、実際に見てきたのである。

   最後に、本書で述べた愚見を大目に見ていただき、筆者の貧しい魂のためにお祈りいただきたく、読者の方々にお願い申し上げる。


主教イグナティ

1865年


[*1]   ローマの聖カッシアン、「スキート砂漠の師父と弁別について」(フィロカリア、第4巻)。
[*2]   晩年、聖サワ大修道院に隠居したダマスクの聖イオアンは、生涯を通じて執筆したものをすべて集め、細心の注意を払って再検討し、自らの著作をできる限り明瞭なものにするべく修正した。神の恩寵に満ちた人がこのようなやり方を選んだので、ましてや筆者はそうするべきであった。ダマスクの聖イオアン伝参照。