「人、もし我に事(つか)えば、我に従うべし」[*1] と、主は言われた。ハリスティアニンは皆、聖なる洗礼を受ける際に主イイスス・ハリストスの僕となり、主に仕える誓約をしている。主イイスス・ハリストスに従うこと、それはハリスティアニンの本分なのである。
主は御自身を「羊飼い」と呼び、「羊はその声を聴き、彼に従う。その声を識(し)るがゆえなり」と言われた[*2]。ハリストスの声とはハリストスの教え、ハリストスの声とは福音書である。そして人生の途上でハリストスに従うこととは、いかなる場合もハリストスの戒めにそって行動することである。
ハリストスに従うためには、その声を知っておかねばならない。福音書を学んでおこう。そうすれば、ハリストスに従って人生を送ることができる。
この世に生を享けた者のうち、聖なる洗礼を受けて「重生(ちょうせい)」[*3]に「入(い)り」、福音書にそって人生を送り、洗礼時にもたらされた状態を維持した者は「救いを得ん」。その人は属神の生を享けて神に喜ばれる人生の場に「入り」、安らかに永眠して「出(い)で」、来世では永遠の「草場」、この上なく豊かで甘美なる属神の「草場を得ん」[*4]。
「人、もし我に事えば、我に従うべし。我が在る所は、我に事うる者もまた彼処(かしこ)に在らん。 人、もし我に事えば、我が父彼を貴(たっと)ばん」[*5]。この言葉を述べたとき、主はどこにおられたか。神性と一つになった人性として、人類の間、人類が追放された「涙の谷」である地上におられた。と同時に、神性としては初めなき初めからおられる所にもおられた。「言(ことば)は神と共に在り」[*6] 、そして神の内におられた。この「言」は御自分について「父が我に在り、我も父に在る」[*7]と宣言された。ハリストスに従う者も、そうなる。 口と心と行いで「イイススを神の子と承(う)け認(と)むる者は、神は彼に居り、彼も神に居るなり」 [*8] 。
「人、もし我に事えば、我が父彼を貴ばん」。世と罪に「勝つ者」、地上の人生で「我」(訳注:ハリストス)に従う者は、永遠の命にあって「我、彼をして、我とともに我が宝座に坐せしめん。我も勝ちて、我が父とともにその宝座に坐せしが如し」[*9]。
ハリストスに従うためには、まず世を捨てねばならない。魂は世を捨てて初めて、ハリストスに従うことができる。主は言われた。「我に従わんと欲する者は、己を捨て、その十字架を負いて我に従え。けだし己の生命(いのち)を救わんと欲する者は、これを喪(うしな)わん、我及び福音のために己の生命を喪わん者は、これを救わん」[*10]。「人、もし我に来たりて、その父母、妻子、兄弟、姉妹、また己の生命をも憎まずば、我が門徒となるを得ず。己の十字架を担いて、我に従わざる者も、また我が門徒となるを得ず」[*11]。
主に近寄る人は多いが、主に従うことを決意する人は少ない。福音書を読んで、その崇高かつ聖なる教えを楽しみ感動する人は多いが、福音書に述べてある掟にしたがって行動していくことを決意する人は少ない。主に近寄り、主に結ばれようとする人に向かって主はこう告げる。「人、もし我に来たりて」、世と自分を捨てなければ「わが門徒となるを得ず」。
「難(かた)いかな、この言(ことば)、誰(たれ)かこれを聴くを得ん」 [*12]。見た目は主に従い、主の弟子とされていた人たちでさえ、救世主の教えに対してこう言った。神の言葉をこう裁くのは肉の思いである。実に禍なる心境である。神の言葉は「生命(いのち)」[*13]であり、永遠の命、本物の命である。この言葉は「肉の念(おもい)」[*14]を殺す。肉の思いは永遠の死より生じ、人を永遠の死に閉じ込める。肉の思いに従い、自ら進んで滅んでいく者にとって神の言葉は「愚(ぐ)なり」。それは「救わるる者のためには神の能(ちから)なり」[*15]。
陥罪の結果、罪はすっかり人間の身につき、魂の隅々までしみ込んでしまった。魂と不可分の罪を捨てるためには、魂を捨てる必要がある。魂を救うために、こうして魂を捨てる必要がある。罪によって汚された本性を捨てることは、ハリストスによって新しくされた本性を身につけるために必要なのだ。料理に毒が混入した場合、それを残らず捨てて皿を丁寧に洗った上で、新しい料理を盛る。毒の入った料理はそれ自体、毒物といえるからである。
ハリストスに従うために、まず自分自身の知恵と意志を捨てることにしよう。人間の知恵も意志も、本性が罪に陥ったためすっかり罪で傷んでおり、神の知恵と意志(御心)をとうてい受け入れることができない。神の知恵を身につけることができるのは、自分の知恵を捨てた者である。神の御心を行うことができるのは、自分の意志を行うまいと決心した者である。
ハリストスに従うために、「自分の十字架を背負う」ことにしよう。十字架を背負うとは、神の摂理によって苦難が身にふりかかったとき、神の裁きを受け入れ、畏敬の念を抱いて甘受することである。苦難や災難に遭ったときに不平不満を言ったり憤慨したりすれば十字架を捨てたことになる。ハリストスに従うことができるのはただ自分の十字架を背負った者、つまり神の御心に服従し、自分は裁かれ、罪に定められ、罰せられて当然であると謙虚に認める者のみである。
自分を捨て、世を捨て、十字架を背負うように教えられた主は、この教えを実行する力をわれわれに与えてくださる。この教えの実行を決意し、実際にそうしようと努力する者は、即刻その教えの必要性を悟る。肉の思いに基づいて「実にひどい」と誤解していた教えは、あくまで合理的な、慈愛にみちた教えであることがわかる。それは滅びた者を救い、殺された者を生かし、地獄に落ちた者を天に昇らせる教えだったのである。
自ら進んで自分と世を捨てようとしない者は、やがて否応なくこれらを捨てることになる。不可避の死に臨むと、この世で執着していたものをすべて放棄し、その自己放棄の度合いも甚だしい。自分の身体さえ脱ぎ捨ててこの地上に残し、その遺体はウジに食われて朽ち果てるまでに至るのだ。
この世のはかない物事への執着と自己愛は、眩惑であり、自己欺瞞であり、魂の死の結果である。自己愛は、自分自身への倒錯した愛である。この愛は愚かで破滅的なものである。自己を愛し、はかない物事や罪なる快楽に執着している者は、自分自身を傷つけ、自分自身を殺す。自分を愛し、自分を喜ばすつもりでありながら、実は自分を憎み、自分を滅ぼし、永遠の死によって自分を殺すのである。
はかない世に心を奪われ、惑わされている者よ、周囲を見回すがよい。はかない世に酔いしれ、正しい自己観を失っている者よ、我に返るがよい。まず、われわれがこの世で常に見聞きしていることについて考えてみよう。それはやがてわれわれの身に起こることでもあるからである。
名誉を求めて一生を費やした者は、永遠の世に逝くとき、それを持って行っただろうか。高い地位、勲章など、誇っていた輝かしい栄光をこの世に置いて行ったではないか。生前の行い、身につけた性質のみを永遠の世に持って行ったではないか。
富を求めて一生を費やし、儲かる会社などを設立して巨万の財を積み、広大な土地を所有し、大理石や黄金に輝く豪邸に住み、高級な馬車を乗り回していた者はそれを永遠の世に持って行っただろうか。否! すべてをこの世に残し、遺体を葬るのに必要な、ごく狭い土地で満足した。死者は皆、一様にこの土地のみを必要とし、一様にそれで満足するのである。
地上の生涯を通じて娯楽や快楽にふけり、友達と遊んだり美食を楽しんだりして時間を費やした者は、やがて必然的に慣れ親しんだ暮らしができなくなる。老年期に入って病み患いが多くなり、ついには死期が迫り、魂が身体を離れる時が来るのである。そのときには、欲望に仕えるのは迷いであり、肉体と罪のために生きるのは虚しいものと悟るが、すでに手遅れである。
この世で成功を追い求めることは、なんと不思議な、なんと奇怪なことか。夢中になって追い求めるが、欲しいものを手に入れた途端、手に入れたものは価値を失い、また夢中で新しいものを追い求める。現在には決して満足せず、未来にのみ生き、まだ手に入れていないもののみを渇望する。願望の対象は、追い求める者の心を魅了し、今度こそ満足するだろうと期待させ、夢を抱かせる。が、期待は裏切られ、その人は常に裏切られつつ、地上の生涯を通じて願望の対象を追い求め、やがて不意の死に見舞われる。この、全ての人を無情に裏切りつつも全ての人の心をつかんで放さない追求の原因は何か。われわれの魂には無限の幸福への欲求が備わっている。しかしわれわれは罪に陥った。よって、陥罪ゆえに眩惑している心は、永遠の世にあるものをこの世に求め、天にあるものを地上に求めてしまうのである。
諸父兄弟のたどった運命は、私の運命でもある。彼らは死んだ。私も死ぬのだ。この部屋を置いて行き、ここにある書籍、衣類、何時間も向かったこの机など、この世で必要だった、あるいは必要だと思っていたものをすべて置いて行く。私の遺体はこの部屋から運び出される。ちなみに、今この部屋で暮らしているのも、来世への旅立ちを待っているようなものだ。私の遺体は運び出され、人体を創造するもととなった土に埋葬される。この拙文をお読みになる兄弟諸君も、やはり同様の運命をたどる。この世のものをすべてこの世に残して逝き、魂のみで永遠の世界に入ることになるのだ。
人間の魂は、その人の活動に相応した性質を獲得するものである。鏡の前に置かれた物が鏡に映るように、人の仕事、言動、環境もまた、その人の魂に映り、それ相応の印象を魂に刻み込む。心を持たぬ鏡の場合、物を取り払えば鏡に映った物の姿は消える。しかし、人間の魂が受けた印象は残る。受けた印象を消し、他の印象に置き換えることもできよう。だが多くの時間と手間がかかる。魂が死期までに受けてきた印象の財産はそのまま魂の永久の財産となり、魂の永遠の幸福、あるいは永遠の苦痛につながる。
「爾等(なんじら)は神と財(たから)とに兼(か)ね事(つか)うる能(あた)わず」 [*16]。救世主は罪に陥った人類にこう言い、人類が陥罪の結果どのような状態にあるかを明らかにされた。医師が、病人には理解できない病状を、病人に説明するようなことである。われわれは魂が病んでいるため、救いを得るためにあらかじめ自分を捨て、世を捨てておく必要がある。「人は二人の主に事うる能わず、けだしあるいは此(これ)を悪(にく)み、彼を愛し、あるいは此を重んじ、彼を軽んぜん」[*17]。
至聖なる医師である主はこう断言し、人類の魂の病に対する見方を示された。その正しさは常に実生活の中で確認される。罪なる欲望を満たせば、必ずそれに心を奪われる。心を奪われれば、やがて欲望の奴隷となり、属神のことには死んだ状態となる。あえて自分の欲望を満たし、肉の思いに従った者はそれに心を奪われた奴隷となった。そして神のこと、永遠のことを忘れ、地上の一生を無駄遣いして永遠の滅びによって滅びたのである。
自分自身の意志と神の意志を同時に行うことはできない。前者を行うことによって後者を行うことは汚され、不当になるからである。高価な香油も、悪臭を放つ不純物が少量でも混入すれば価値を失う。神は大預言者を通してこう告げられる。「爾等、もし快く従わば、地の良き物を食せん。もし拒み背かば、剣は爾等を滅ぼさん。主の口、これを語れり」[*18]。
肉の思いを固持したまま神の知恵を獲得することはできない。「肉の念(おもい)は死なり。肉の念は神に対して仇(あだ)なり。神の律法に服せず、且つ服する能(あた)わざればなり」[*19]と、使徒は述べている。肉の思いとは何か。肉の思いとは、人間の陥罪状態から生じた考え方のことである。この考え方をしている人は、まるでいつまでもこの地上に留まると思っているかのように行動し、はかなく過ぎ去る世のことを重んじて神のことを軽んじ、神に喜ばれることなどしようとも思わない。この考え方は、人から救いを奪うものである。
われわれも救世主の教えに耳を傾け、魂を得るために魂を捨てよう。人となった神によって新たにされた人性の聖なる状態を神からいただくために、自ら神に背いて招いた堕落状態を自主的に放棄しよう。自分の意志と悪霊の意志――われわれの意志は悪霊の意志に支配され、同化している――を、福音書に示された神の意志(御心)に置き換えてみよう。悪霊と人間が共有する肉の思いを、福音書に輝く神の知恵に置き換えることにしよう。
主イイスス・ハリストスに従う能力を獲得するために、自分の財産を捨てよう。財産を捨てる上では、まず財産とは何かを正しく認識しておかねばならない。物質的な財産に対する正しい認識は、福音書が教えてくれる[*20]。それを教わると、人間の理性もそれがいかに正しいものか納得する。地上の財産の所有者はわれわれではない。この問題について一度も考えたことがない者は、所有者は自分であると誤解するが、そうではないのである。もしそうなら、財産はいつまでもわれわれのものであり続けるはずである。財産は手から手へと回っていくものであり、一時的使用のために与えられていることが明らかである。財産の所有者は神なのである。人間は期限付きの管理人に過ぎない。誠実な管理人は、管理を任せた者の意志を忠実に履行する。われわれも、期限付きで与えられている物質的財産を管理するにあたって、神の御心にそってそれを管理するようにしよう。自分の欲望を満たすために財産を使ってはならない。こうした使い方はわれわれの永遠の滅びにつながるからである。人類のため、困窮し苦しんでいる人のために、財産を使うことにしよう。こうした使い方はわれわれの救いにつながるのである。完全なハリスティアニンになろうとする者は、地上の蓄財を完全に放棄する[*21]。また、救われようとする者は、できる限り施しをし[*22]、蓄財をし過ぎないようにせねばならない。
名声欲、名誉欲を捨てよう。高い地位や栄誉をしきりに求めたり、それを得ようとして、許されざる卑怯な手段を使ったりしないようにしよう。許されざる手段とは、神の法に背き、良心がとがめ、隣人の利益を踏みにじるような手段である。出世しようとする者は、とかくこうした手段を使うことが多い。虚栄心に駆られ、名声を求めてやまない人はハリストスを信じることができない。ハリストスは名誉欲の強い同時代の人に向かって「爾等、互いに栄を相受け、独一の神よりする栄を求めずして、あに信ずるを得んや」 [*23]と言われた。われわれは、もし神の摂理によってこの世で権勢や権力を与えられたならば、それを用いて人々に恩恵を施すようにしよう。人間の精神に極めて有害な毒――愚かで忌むべき利己主義――を避けよう。それに感染した人はやがて鬼畜と化し、人類の疫病神となり、自分自身の身を滅ぼしてしまう。
神の御心を何よりも愛することにしよう。何よりも神の御心を選び、それに反することはすべて憎もう。こうした憎しみこそ、神に喜ばれる敬虔な憎しみである。罪によって損なわれている自分の本性が福音書の教えに反発すれば、本性の欲求を無視し、本性に対して憎しみを示そう。きっぱりと憎しみを示せば示すほど、罪、そして罪に支配される本性への勝利は決定的なものとなり、属神の成長もはかどって確かなものとなる。
われわれが神の御心に従おうとしているときに、親族がそれを嫌がり、われわれにそうさせまいとすることもあるが、そうした場合には親族に対して聖なる憎しみを示そう。この憎しみは小羊たちが狼に対して示す憎しみに似ている。小羊は狼に襲われても狼の真似はせず、狼に歯向かいはしない[*24]。隣人への聖なる憎しみとは、神に忠実であり続けること、そして家族であろうと人の悪しき意志には従わず、その人から受ける侮辱を寛大に忍び、その人の救いのために祈り、その人を決して罵らず、また罵りに等しい行為をしないことである。罵りなどは陥罪した本性の憎しみ、神に嫌われる憎しみの表現なのである。
「我、和平を地に投ぜんために来たれりと意(おも)うなかれ。我が来たれるは和平にあらず、すなわち刃(やいば)を投ぜんためなり。けだし我が来たれるは、人をその父と、女(むすめ)をその母と、婦(よめ)をその姑(しゅうとめ)と分かたんためなり」[*25]と、救世主は言われた。階梯者聖イオアンは、主の言葉をこう説明する。「主は、人を分けるために来られた。神を愛する人を世を愛する人と、属神の人を肉の人と、名声を好む人を謙虚な人と。人が、神への愛のゆえに分かれ、別々になることは、神に喜ばれることである」 [*26]。
預言者はこの世を「我が旅する処(ところ)」[*27]と言った。また自分のことを旅人と言い、神にこう祈った。「我は爾の前に旅客(たびびと)たり、寄寓者(きぐうしゃ)たり、我が列祖の如し」[*28]。実に明白な事実である。この事実の明白さにもかかわらず、人々はそれを忘れがちである。この世で私は、「旅客(たびびと)」である。生まれて旅を始め、死んで旅を終える。この世で私は、「寄寓者」である。楽園で罪を犯して身を汚した結果、楽園から追放され「寄寓者」としてこの地上に置かれた。期限付きの追放先である地上をも、やがて去ることになる。私が神によって地上に置かれたのは、心を入れ替え、罪を清め、再び楽園で生活できるようになるためである。頑として悔い改めないなら、私は永遠の地獄に落ちることになっている。私は地上の「旅人」である。ゆりかごから旅を始め、墓で終える。幼少から老後までそれぞれの年齢を旅し、この世での様々な環境や地位を旅する。私は「旅客たり、寄寓者たり、我が列祖の如し」。私の先祖も地上の寄留者であり、旅人であった。生まれて地上に寄留し、死んで地上を去っていった。例外はなかった。いつまでも地上に留まった人は一人もいないのである。私もやがて去る。老年で体力が衰え、もうその時期は迫っている。私の創造主が定めた不易の法則にしたがい、私は必ずこの世を去る。
この世は仮の宿なのだと思い知ろう。そう思い知って初めて、この世での一生を計画し、正しく使うことができる。そう思い知って初めて、人生を正しく方向づけ、永遠の幸福を得るために使うことができる。さもなくば、はかなく空しい物事に人生を費やし、身を滅ぼすことになろう。陥罪はわれわれの目を眩まし、すっかり見えなくしてしまった。だから明々白々たる事実でも、長い時間をかけて自分に言い聞かせ、力ずくで自分に自覚させねばならないのだ。
旅人は、旅の途上で宿に泊まったとき、宿に特別な注意を払うことはない。滞在期間が短いので、そもそも注意など払わなくてもよいのである。旅人は必要最低限のもので満足し、今後旅を続け、目的地の大いなる都で生活する必要経費を浪費しない。旅に欠点や不便はつきものだと割り切り、憧れの地ではこの上なく平穏な生活が待っていることをわかっているから、寛大な心で困苦にも耐える。どんなに魅力的な物でも、宿にあるいかなる物にも執着することはない。苦労の多い旅を全うせねばならないので、貴重な時間を無駄にすることもない。自分が向かっている壮麗な王都にいつも想いを馳せ、これから乗り越えねばならない障害、旅を楽にできる方法、途中で待ち伏せしている盗賊、この旅を無事に全うできなかった人々の不幸、望みどおり成功して旅を全うした人々の至福などについて深く考える。そして、必要な期間だけ宿に滞在した後、宿主から受けたもてなしに感謝の言葉を述べ、去って宿のことを忘れ、または薄く記憶しているに過ぎない。宿には無関心だったからである。
われわれもこの世に対し、同様の姿勢をとるように努力しよう。愚かにも心身の能力を浪費し、はかない物事に身を投じてはならない。仮のもの、物質的なものに執着しないようにしよう。この執着は、永遠のもの、天上のものの獲得を妨げるからである。満たしがたい欲望を満たそうとしてはならない。欲望を満たそうとすれば、陥罪状態は増長し、とてつもなく大きくなる。不必要なものを望まず、本当に必要なものさえあればそれでよいと思うようにしよう。あくまでも、終わりのない死後の生命に注意を向けよう。神を知ろう。われわれは神から、神を知るようにと命ぜられており、神の言葉、神の恩寵によってその知識を賜わる。この世に生きている間、神に結ばれるようにしよう。われわれは神から、神と親密な関係を結ぶ可能性を与えられ、この大いなる業を成し遂げるために地上の人生という期間を与えられている。地上の人生以外、神に結ばれ得る期間はない。この人生のうちに神に結ばれなかったなら、いつまでも神に結ばれることはない。天の住民、すなわち聖天使、永眠した聖人の友となれるようにしよう。そうすれば、彼らはわれわれを「永遠の宅(すまい)」 [*29]に迎え入れてくれるだろう。人類の悪辣な敵である悪霊どもに関する知識を獲得しよう。奴らの悪巧みにひっかかり、奴らと共に地獄の火の中に住むことにならないためである。神の言葉こそ人生行路を照らす灯(ともしび)となるがよい[*30]。仮住まいである地上はわれわれの欲求を満たす良きものに満ちあふれているが、そのことを神に感謝し、神を讃美しよう。清い心によってその良きものの意味を悟ろう。それは天上の良きものの弱い反映に過ぎない。影を落としている物体が影によって描かれるように、天上の良きものは地上の良きものによって弱くかつ不十分に描かれている。われわれに地上の良きものを与えてくださる神は秘かにお告げになる。「人間よ、あなたたちの仮住まいには目を魅了し、心をうっとりさせ、各種の欲求を満たす多種多様な無数の良きものがあり余るほど備わっている。このことから、あなたたちの永遠の住まいにどれほど良きものが備わっているか推し量りなさい。無限かつ理解しがたい神の慈しみを悟り、地上の良きものを敬虔な目で見て敬意を表し、分別をもって振る舞いなさい。つまり、地上の良きものの奴隷となり、そのために身を滅ぼすようなことがあってはならない。必要な分だけ地上の良きものを利用しつつ、力を尽くして天上の良きものを獲得しなさい。」
誤った教えをことごとく退け、それに沿って行動することを避けよう。ハリストスの羊たちは「疎(うと)き者に従わず、すなわちこれより逃(に)ぐ、疎き者の声を識(し)らざるがゆえなり」[*31]。ハリストスの声をよく知ろう。それを聞いて直ぐわかり、直ぐ主の命令に従うためである。われわれの精神は、主の声に共感するようになると、肉の思いが煩雑に響く「疎き者の声」を疎んじるようになる。「疎き者の声」を聞いたら、ハリストスの羊として逃げ去り、その声にいっさい耳を傾けないようにしよう。少しでもそれに耳を傾けることは既に危険である。耳を傾ければ、知らないうちに心が惑わされる。心が惑わされれば、人間は滅びるのである。人類の祖が罪に陥ったのは、人類の母が「疎き者の声」に耳を傾けたことが発端であった。
羊飼いはわれわれを声で呼ぶだけでなく、御自身の生き方で導き、羊に「先だちて行く」[*32]。主は世を捨て、己を捨て、十字架を背負えと教えるだけでなく、自らそれをすべて成し遂げてわれわれに模範を示された。「けだしハリストスも我等のために苦しみを受けて、我等に式(のり)を遺(のこ)せり、我等がその跡(あと)に随(したが)わんためなり」[*33]。人性を受けた主は、家系は王族にさかのぼるが平民に成り下がった家にお生まれになった。その生誕は、主の至聖なる母の旅中に起こった。至聖なる生神女は宿屋に泊まる場所もなく、家畜を飼う洞窟で主を産んだ。新生児のゆりかごは飼い葉桶だった。誕生のうわさが広まるや否や、暗殺が企てられた。主はまだ幼子であるのに既に迫害の的となり、殺意の的となった。砂漠を渡ってエジプトへ逃亡し、怒り狂った暗殺者の手を逃れることになった。少年時代、神人は両親、つまり義父と実母に従って過ごし、人類に謙遜の模範を示された。高慢さから神に逆らった人類に対して道を示すためである。成人した主は福音の伝道に身を捧げ、町から町、村から村へと旅し、住居を持とうとされなかった。主の衣服は上着一枚と下着一枚だけだった。主は人々に救いを告げ、神として豊かな恵みを与えたにもかかわらず、人々は主を憎み、何度も殺そうとした。そして、ついに主を刑事犯として処刑した。主が彼らにこの極悪行為を許したのは、至聖者の処刑によって、罪を犯した人類を永遠の呪いと処刑から解放するためであった。神人の生涯は苦しみに満ち、また苦しみの死で終わった。聖人も、みな主に従い、永遠の幸福を得た。みな狭くつらい道を歩み、世間の栄誉や歓楽を拒み、身を修めて肉体の欲望を制し、精神をハリストスの十字架―――陥罪した人間の精神にとって「十字架」とは福音書の戒め―――につけた。みな困苦欠乏に耐え、悪霊に迫害され、兄弟たる人々に迫害されたのである。われわれも是非ハリストスに従い、ハリストスの後について歩んだ大勢の聖人に従おう。神人は「既に己を以て我等の罪の浄(きよめ)を為して、高処(たかき)に在りて威厳の宝座の右に坐せり」[*34]。主に従う者は、まさにそこへ招かれている。「我が父に祝福せられし者よ、来たりて、創世以来爾等のために備えられたる国を嗣(つ)げ」[*35]。アミン。