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福音書を読むことについて


   福音書を読んで楽しみたい、感動したい、知的好奇心を満たしたいなどと考えてはならない。福音書を読んで、聖なる真理を追究したいものである。

   福音書をただ読むだけなら、実を結ぶことはない。読むだけでなく、福音書の戒めを守り、その教えを実践しなさい。福音書は命の言葉であるから、いのち全体、つまり生活をもって読むことが大切である。

   四福音書はあらゆる書物の中で最も聖なるものである。この書物がマトフェイによる福音書から始まり、イオアンによる福音書で終わることにはそれなりの理由がある。マトフェイは神の御心を行うにはどうすればよいかを中心に教えており、その教えは特に神の道を歩み始める人にふさわしい。イオアンは、戒めを実践して新しくなった人が神に結ばれる方法を述べており、その教えは神の道に進歩してはじめて理解できるものである。

   聖なる福音書をひもとくとき、「この書物は私の永遠の運命を決めるのだ」と思うとよい。われわれは福音書に基づいて裁かれ、この世で福音書に対してどんな態度をとっていたかにより、永遠の幸福、あるいは永遠の刑罰を受けるからである[*1]

   吹けば飛ぶような存在の人間に対し、神は御心を啓示してくださった。その偉大にして至聖なる御心を述べた書物はあなたの手元にある。あなたの造り主、救い主の御心を受け入れるか否かはあなたの自由である。永遠の命を受けるか永遠の死を受けるかはあなた次第である。それを考えると、慎重にならないわけにはいかない。自分の永遠の運命をもてあそんではならない。

   痛悔の心で主に祈り、「わが目を啓き給え、しかせば我爾が律法の奇蹟を観ん」[*2]と唱えるがよい。この場合、「律法」とは福音書のことである。神が目を啓いてくださると、神の言である主イイススが病人を癒した奇跡は、罪に病んだ魂を癒す奇跡だったのだと悟る。身体の病気の癒しは、魂の癒しの証拠に他ならなかった。この証拠を必要としたのは肉の人、つまり感覚的欲望に溺れて心の目が見えなくなった人たちである[*3]

   深い畏敬の念を抱き、細心の注意を払って福音書を読むがよい。一字一句たりともおろそかにせず、丁寧に読み込むことが大切である。福音書の一字一句は命の光を発している。命を大事にしないことは、死である。

   らい病を患っている人、中風の人、目の見えない人、足の不自由な人、悪霊に取りつかれた人などが主に癒された話を読むときには、自分の魂もさまざまな罪の傷を負い、悪魔にとらわれており、これらの病人に似ていると考えればよい。福音書から学び、「熱心に祈って主にお願いすれば、主は彼らを癒したように私をも癒してくださる」と信じよう。

   魂の癒しを受けるためには、それにふさわしい姿勢をとる必要がある。つまり自分の罪を自覚し、罪から離れようと決心することだ[*4]。高慢な「義人」、すなわち自分の罪が見えない罪人に、救い主は無用である[*5]

   自分の罪を見、全人類の陥罪状態を見ることは、神の特別な賜物である。神に祈ってこの賜物を受ければ、天の医師の書である福音書がよりわかりやすくなる。

   福音書の内容を自分のものとするように心がけるがよい。あなたの心はいわば福音書の中を泳ぎまわり、その中で暮らすようになればよい。そうなれば、あなたの行いも福音書に沿ったものとなろう。そのためには、日頃から慎み深く福音書を読み、学ぶことが大切である。

   古代の名高い師父の一人である聖大パホミイは福音書を自ら暗記していた上、神の啓示を受けて弟子たちにも必ず暗記させた。その結果、弟子たちはどこに行っても福音書を心の糧とし、導きとすることができた[*6]

   現代のハリスティアニンの養育者たちも、罪のない子供にイソップ物語など下らない本を覚えさせるよりも福音書を覚えさせたらどうだろうか。子供は、福音書の言葉が記憶に残るとイソップ物語などよりもずっと心が美しくなるだろう。

   福音書を暗記しておくことはなんという幸福、なんという富だろうか。人生には逆境や災難がつきもので、不測の事態が発生することもある。福音書を暗記しておけば、視力を失っても、監獄に入れられても平気である。額に汗して畑で働いている農夫も、法廷で訴訟を審理している裁判官も、商い中の商人も、なかなか眠れずひとりで苦しんでいる病人も、福音書を暗記していればその教えを導きとし、楽しむことができる。

   福音書を含め、聖書を敢えて自分勝手に解釈してはならない。聖書は聖預言者と聖使徒が自分勝手に語ったものではなく、聖神に導かれて語ったものである[*7]。それゆえ、聖書を自分勝手に解釈するのは実に愚かなことである。

   預言者と使徒を通して神の言葉を語った聖神は、聖師父を通してそれを解釈した。神の言葉もその解釈も、聖神の賜物なのである。聖なる正教会が認めるのはそうした解釈のみである。正教会の真の諸子もそうした解釈のみを認める。

   自分勝手に聖書を解釈する人は、そうすることで聖師父の聖書解釈、つまり聖神による聖書解釈を否定する。聖神による聖書解釈を否定する人は、聖書そのものを否定するのである。

   神の言葉は救いの言葉であるが、大胆に聖書を解釈する人々には「死に至らせる香り」、「両刃(もろは)の剣」となる。彼らはこの剣で自分を刺して、自分の永遠の滅びを招く[*8]。この剣で自分を殺して永遠に滅びたのはアリウス、ネストリウス、エウテュケスなどの異端者である。彼らは皆、自分勝手に大胆に聖書を解釈して神を冒涜したのである。

  「わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である」[*9]と、主は言われた。あなたも福音書とその中におられる主に対し、このような態度をとるがよい。

   罪深い生活を捨て、この世への執着や歓楽を捨て、自分の命を捨てるがよい。そうすれば、福音書はわかりやすくなる。

  「己の生命(いのち)をこの世に悪(にく)む者は、永生のためにこれを護らん」[*10]と、主は言われた。ここでいう命とは、陥罪状態のゆえに罪を愛する命である。自分の命を愛し、自己放棄をしようとしない人には福音書がわからない。文字を読んではいるが、聖神に満ちた命の言葉を悟ることができないのである。

   至聖なる主が身をとって地上におられたとき、多くの人は主を見ていながら正体を見抜くことができなかった。人は肉体の目で見ていても、心の目で何も見ていなかったら何の益があろうか。今も多くの人は毎日福音書を読んではいるが意味を悟らず、まったく読んでいないも同然である。

   ある克肖なる隠遁者はこう教えている。福音書を読むには清い心が必要である。福音書を理解するにはその戒めを実践することが必要で、実践すればするほど理解できるものである。ただし、自力で福音書の意味を正確かつ完全に悟ることはできない。それはハリストスが与えてくださる賜物なのである[*11]

   真心を尽くして聖神に仕える人は、聖神が心に宿ると福音書を完全に理解し、真に実践するようになる。

   福音書は新しき人の特徴を描いた書物である。新しき人とは「天よりして主」である[*12]。この新しき人、主イイスス・ハリストスは本性による神である。主を信じ、主にならって変容した人々は、主の聖なる一族として恩寵による神となる。

   悪臭を放つ汚い罪の泥沼にはまって出ようとせず、それを楽しみさえしている者たちよ。頭をもたげて清い天を見上げるがよい。あなたがたの住まいはそこにあるのだ。神はあなたがたに神の資格をお与えになるが、あなたがたはその資格を拒み、汚れた動物の資格を選ぶ。正気に返るがよい。悪臭を放つ泥沼を捨て、罪を告白して身を清めるがよい。痛悔の涙を流して顔を洗い、傷感の涙を流して身を飾るがよい。地を離れ、天に上れ。あなたがたを天に上らせてくれるのは福音書である。「爾等、光――ハリストスを秘めた福音書――ある間に、光を信ぜよ、光――ハリストス――の子とならんためなり」[*13]




[*1]    「我を拒みて、わが言を納れざる者には、これを定罪するものあり、すなわちわが語りし言なり、これ末の日において彼を定罪せん」(イオアン12:48)。⇒「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネ12:48)。
[*2]    聖詠118:18。⇒「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に、わたしは目を注ぎます」(詩編119:18)。
[*3]    ルカ5:17-26参照。
[*4]    「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない人は見えるようになり、見える人は見えないようになる。』 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、『我々も見えないということか』と言った。イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』」(ヨハネ9:39-41)。
[*5]    「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。
[*6]    聖大パホミイ伝 (Vies des Peres des deserts d’Orient par le R.P. Michel-Ange-Manin)。ザドンスクの聖ティーホンも福音書を暗記していた。
[*7]    「けだし預言は未だかつて人の旨によりて出でしにあらず、すなわち神の諸聖人が聖神に感ぜられてこれを言いしなり」(ペトル後1:21)。⇒「なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたものではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(Uペトロ1:21)。
[*8]    「(聖使徒パウェルの)手紙には難しく理解しにくい箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(Uペトロ3: 16)。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(Uコリント2:15-16)。
[*9]    イザヤ66:2。
[*10]    イオアン12:25。⇒「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)。
[*11]    苦行者聖マルコ、属神の律法について、32章(フィロカリア)。
[*12]    「第一の人は地よりして土に属し、第二の人は天よりして主なり」(コリンフ前15:47)。
[*13]    イオアン12:36。⇒「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)。