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目次



聖師父の著書を読むことについて


   人は人と交わって感化されるものである。学者と交われば、豊富な知識を得ることができる。詩人と交われば、詩情豊かな人になれる。旅行家と交われば、世界各国の事情や風習について多くを学べる。聖人と交われば、聖性を身につけることができる。「爾、聖なる者と共に聖ならん、咎(とが)なき人と共に咎なからん、選ばれし者と共に選ばれん」[*1]

   短い人生の間、聖人と知り合うがよい。聖書は地上の人生を「生」とさえ言わず「旅」と言うが、もし、この旅を終えた際に天上の聖人の仲間に加わり、聖人と同様の幸福を得たいと考えるなら、今から聖人と交わるがよい。そうすれば、魂が身体を離れたとき、聖人たちはあなたを仲間として迎え入れるだろう。[*2]

   考えが一致し、思いが一致し、目的が一致している交わりほど親密な交わりはない[*3]

   人は考えが一致していれば心も一致し、目的も必ず一致しており、その目的を同様に達成して成功するものである。

   聖師父の著書を読み、聖師父の考えと精神を身につけるがよい。聖師父は救いという目的を達成した。あなたも自然にこの目的を達成するだろう。聖師父と考えが一致し、心が一致している者として救いを得るだろう。

   聖師父は天国に行き、永遠の幸福を得た。ということは、聖師父の考え、思い、行いは天に適っている。聖師父が自らの考え、思い、行い方を述べた著作は間違いなく人を天に導く案内書である。この案内書には天の保証がついている。

   聖師父の著作はみな聖神に動かされ、ないし聖神の影響を受けて書かれた。その内容は見事に一致し、見事に油を注がれている。聖師父の著書に導かれて歩む人は、聖神に導かれて歩むのである。

   大地の川はみな海に注ぎ、海もまた大地の川の原点なのかもしれない。聖師父の著書はみな福音書に行き着き、まず主イイスス・ハリストスの戒めを正しく守るにはどうすればよいかを教えている。聖なる福音書は、聖師父の著書の原点にして終点なのである。

   聖師父は福音書の読み方を教えている。つまり、福音書を読む前の心の準備、読むときの正しい姿勢、福音書の正しい理解を教えている。さらに、その理解を何が助け、何が妨げるかを教えているのである。それゆえ、最初は聖師父の著作を中心に読まねばならない。聖師父から福音書の読み方を教わったら、次は福音書を中心に読めばよい。

   聖師父を読まずに福音書だけ読んでいればよいなどと考えてはならない。これは高慢かつ危険な考えである。むしろ聖師父の弟子、聖師父の愛する子として福音書をひもとけばよい。聖師父の愛する子は聖師父の著書を読んで育ち、予備教育を受けるのである。

   威張って聖師父の著書を拒絶し、知性と心を清めていないまま福音書を直接読もうとした無鉄砲な人は皆、致命的な錯誤に陥った。彼らは福音書から拒絶されたのである。福音書に受け入れてもらえるのは謙虚な人だけだからである。

   聖師父の著書を読むことは、あらゆる徳の親であり王である。聖師父の著書を読めば次のことを学べる。「正しい聖書理解」「正しい信仰」「福音書の戒めに沿った生活」「福音書の戒めへの深い尊敬」、端的に言えば「救い」と「ハリスティアニンとしての完成」を学べるのである。

   聖神を宿した教師が少なくなった後、聖師父の著作を読むことは、救われようとする人、またハリスティアニンとして完成しようとする人のために、最も重要な道しるべとなった[*4]

   ある聖師父の言い方によれば、聖師父の著書は鏡に似ている。その鏡に魂を映してよく見ていれば、魂の欠点を見極めることができる。

   その著書はまた、豊富な薬箱に似ている。それを開けば、魂は各種の病に効く薬を発見することができる。

   キプロスの聖エピファニイはこう語っている。「聖なる書物を一目見ただけでも、敬虔な生活を送りたくなるものだ」[*5]

   日頃から聖師父の著書を読まねばならない。丁寧にじっくりと読むことが大切である。目に見えない敵は正しい教えが伝えられることを憎み、特に聖師父の教えを憎んでいる。その教えは、敵の悪巧みや嘘を暴露し、敵のしかけた落とし穴を知らせ、狡猾な手口を見破らせてくれるからである。そこで、敵は人に聖師父を読ませまいとして戦いを挑む。読もうとする人の心に高慢な思いや謗(そし)る思いを吹き込んでみたり、俗事に専念させようとしてみたり、救いの読書を止めさせるべく戦って、倦怠・退屈・忘却などの穴に陥れようとする。聖師父の著作を読むことはわれわれの武器であるが、敵がこれほどそれを憎んで激戦を挑むことから、この武器がどれほど有効なものか推し量るべきである。敵は力を尽してその武器をわれわれの手から奪おうとしているわけである。

   各々は、その生活環境にふさわしい聖師父を読まなければならない。隠遁者は、静寂について述べた聖師父を読めばよい。共住修道院に住む修道士は、共同生活を営む修道士のために書いた聖師父を読めばよい。また一般信徒は、全てのハリスティアニンのために教えを述べた聖師父を読めばよい。身分を問わず、それぞれ聖師父の著作を読んで豊かな糧を得るがよい。

   必ず自分の生活に合った読書を選ぶ必要がある。さもなければ、せっかく聖なる考えをいろいろ取り入れても実行することができず、活動しようと思い立っても活動する場がなく、実を結ばずに想像力だけ働かせることになる。一方で、自分の生活にふさわしい敬虔な行いは行わずじまいになる。このような人は、実を結ばない空想家になるばかりでなく、考えていることが常に実際の活動環境と矛盾して心がかき乱され、行いも定まらなくなってしまう。それは本人にも隣人にもつらく有害なことである。聖書と聖師父の著書の読み方を誤れば、とかく救いの道を踏み外して迷路に入り込み、深い穴に陥りやすい。実際に、そうなった人も多いのである。アミン。


[*1]    聖詠17:26~27(※七十人訳聖書を底本とした試訳)。
[*2]    ルカ16:9。
[*3]    コリンフ前1:10。
[*4]    ソラの克肖者ニル著「規則」。
[*5]    アルファベット順聖師父言行録。