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1829年、私は人里離れたプロシャンスカヤ修道院[*1]で冬を過ごした。この修道院の果樹園には今でも木造の庵がぽつんと建っていると思う。友人と共に住んでいた庵である。風もなく、よく晴れた日には玄関に出てベンチに腰かけ、広い果樹園を眺めたものである。落葉した裸の木が雪のベールに覆われ、果樹園は銀世界であった。辺りはしんと静まり返り、死のごとき静寂に包まれていた。私はこの眺めが好きになった。つい思いにふけってそれに目を向け、謎解きをするかのように目を離すことができなかった。
ある日、私はじっと座って果樹園を眺めていた。すると突然、目から鱗が落ちた。心の目が開かれ、自然界に秘められた謎が解けたのだ。自然界はそもそも書物である。この書物は最初の人間アダムが読み解くように造物主から与えられ、聖書と同様、聖神の言葉を載せている。さて、果樹園から読み取った教えとは何か。死者が復活するという教えである。この教えは復活に似た自然現象によって描かれ、強く心に訴えるものがあった。春の自然がよみがえる現象を見慣れていなかったら、それはきっと信じられない奇跡に見えたことだろう。見慣れているから、驚かない。奇跡を見ながら、奇跡だと気づかないのである。裸の木の枝を眺めていると、枝たちは説得力ある謎の言葉でこう語りかけてくれた。「われわれはよみがえって葉を出し、香りを漂わせ、花をつけ、実を結ぶ。枯れた人骨も、その春が来れば必ず復活するのだ」。
人骨は復活して肉をつけ、新しい形となって新生命、新世界に入る。極寒に耐え切れず、命の樹液を失ってしまった木々は、春になると伐採され、果樹園から搬出され、焚き物となる。人間の命である神を失ってしまった罪人たちも、この世の最後の日に集められ、永遠の来世では消えることのない火に投げ込まれる。
仮に四季の移り変わりのことを知らない人があったとしよう。そしてその人を誘い、死の眠りについている冬の果樹園へ案内したとしよう。裸の木々を見せた上で、春になるとその木は豪華な晴れ着を身にまとうと話せば、その人は答えもせず、話し相手を見て笑うだけだろう。「荒唐無稽な話だ」と思うに違いないからである。死者の復活もまた、この世の知恵の闇をさまよう賢人たちには信じられないことである。彼らには、神は全能であるということがわからない。そして、被造物の知力では神の叡智を観察できても、理解し尽くすことはできないということもわからない。神にはすべてが可能である。神に奇跡など、存在しない。人間の思考とは弱いもので、見慣れないことは実現不可能なこと、信じられない奇跡に思えてしまう。われわれは神のなせる業を常に見ており、もはや無関心となっている。しかしその業は実に驚くべきものであり、理解し尽くせない大いなる奇跡なのである。
自然は毎年、春の不思議な現象で死者の復活をかたどり、その教えを繰り返し全人類に見せてくれているのである。
1843年、聖セルギイ修道院にて