属神の知恵をもって地上の苦難に耐えるハリスティアニンを何にたとえたらよいか。波打つ海辺に立っている旅人に似ている。白波は旅人の足もとに激しく打ち寄せ、足もとの砂に当たってしぶきを上げながら散っていく。海は暴風と戦ってうなり、山のごとき波を立てて荒れ狂っている。波は波を生み、次の波に呑まれていく。波頭は真っ白な泡を頂いている。海原は白波に覆われ、まるで巨大な怪獣が歯をむき出しているかのようである。謎の旅人は静思にふけってこの凄まじい光景を眺めている。海を見ながら、何を思っているのだろうか。死を思い、ハリストスの審判を思っている。心の中では、すでにハリストスの前に立って審判を受けているのだ。この審判を気にかけて恐れているので、地上の試練など恐れたりしない。やがて風がやみ、海は凪になる。逆巻く怒濤は静まり、海面は嵐に疲れて動かなくなる。大荒れの後、安らかに眠り、死のごとき静寂に包まれるのだ。透き通るような海の鏡には夕日が映る。夕日はクロンシュタットの上からフィンランド湾を照らし、ネヴァ川河口のサンクトペテルブルクを茜色に染める。聖セルギイ修道院に住んでいるとよく見る壮観である。この空も、この海辺も、この建物も、これまで泡を頂いた驕傲な荒波を幾度となく見てきたが、どの波も過ぎ去って墓の静けさと化した。これから襲おうとする波もまた過ぎ去り、これまでと同様に静まるだろう。白く泡立った波頭ほどはかなく長続きしないものはない。
静かな修道院を隠れ処とし、諸慾の嵐が荒れ狂う世の海を見て、神に感謝する。わが王、わが神よ、あなたは私を導いて聖なる修道院に入らせ、「人の乱れより爾が面の陰に庇い」、「舌の争いより幕の中に隠」 してくださった[*1]。将来に不安を抱き、憂慮していることはただ一つ。すなわち、はかなく頼りない世の海辺を去った後に「慶賀する会の欣喜讃栄の声をもって神の家に入り」[*2]、それを永遠の住まいとすることができるかどうか、に尽きる。地上の苦難については、「我神を恃みて懼れず、人我に何をか為さん」[*3]。
1843年、聖セルギイ修道院にて