信者の鍛練の中心にあるもの、それは「内省」である。自らを省みなければ、どの鍛練も実を結ばず、死んだものである。救われようとする人は独りのときだけでなく、余儀なく多忙を極めているときにも自らを省みるべきである。神を畏れる思いと他の思惑を心の天秤にかけ、前者を選ぶがよい。そうすれば、静かな自室にいても喧騒の真っ只中にいても容易に自らを省みることができるだろう。
より良い内省のためには節食が欠かせない。適度に節食することで血の騒ぎを少なくし、頭を冷やすことができるからである。逆に、食べ過ぎたり、激しい運動をしたり、激怒したり、虚栄心に浸って自己陶酔したりなどして体が熱くなり頭に血が上れば、雑念や夢想がたくさん生まれて注意力が散漫になる。聖師父は次のように教えている。常に自らを省みようとする人は、何よりもまず適度に飲食を節制し、いつもなるべく同じ量の食事をとるようにすべきである[*2] 。
朝、目を覚ましたら、まずは神に思いを馳せ、まだ俗塵にまみれていない精神の初穂を神に献げるがよい。朝の目覚めは、全ての人がやがて死の眠りから覚める復活を象っている。静かに、慎み深く朝の身支度をしてから、朝の祈祷を唱えなさい。祈祷の量よりも質を重視し、注意を集中して祈ることが大切である。注意深く祈れば、心は祈りの傷感や慰めによって照らされ、生かされるだろう。祈祷後はやはり細心の注意を払って、福音書をはじめとする新約聖書を読むとよい。読むときはハリストスの教えや戒めを人生の指針として一言一句心に留めるようにしなければならない。読む量はその人の力量と状況による。祈祷のし過ぎと聖書の読み過ぎで精神に負担をかけてはならない。また、自分の仕事をおろそかにしてまで、度を超した祈祷と読書に励んではならない。食事をとり過ぎると胃を壊し、胃弱になりかねない。同じように、心の糧をとり過ぎると精神力が衰え、敬虔な鍛練に嫌気がさし、怠惰に流れかねない[*3] 。聖師父は、初心者にはなるべく頻繁な、しかし長くはない祈りをするよう勧めている。そして精神が属神の成長をもって成長し、強健になって一人前になったら、絶え間なく祈ることができるようになる。聖使徒パウェルはこう述べている。「我望む、男は潔き手を挙げて、怒りなく、疑いなく、いずれの処においても祈祷をなさんことを」[*4]。つまり、主にあって成人したハリスティアニンは、一切の慾や雑念を去り、少しも気が散ることなく祈ることができるようになるのである。成人にはできることでも、子供にはまだ及ばないものである。祈祷と読書を通じて義の太陽である主イイスス・ハリストスの光を浴びてから、その日の仕事や用事にとりかかりなさい。一日のあいだ何をするにしても細心の注意を払って、至聖なる神の御心に沿った言動や姿勢を心がけるべきである。神の御心は、福音書の戒めによって人類に啓示され、説明されている。
一日のあいだ数分でも暇があれば、或る祈りを選んで注意深く唱え、または聖書の或る個所を選んで読み、煩雑な世の中で働いて疲れた心の栄養剤とするがよい。こうした貴重な数分がなかなか見つからない場合には、宝物を失ったと思って悔やめばよい。今日失ったものは明日失ってはならない。なぜなら、人の心はとかく怠慢になりやすく、大切なことを忘れやすいからである。怠慢と忘却に陥ったら最後、無知蒙昧に陥って、救いを失いかねない。
神の戒めに反した言動をとってしまったときには、直ちに過ちを悔い改め、心から痛悔して神の道に立ち返るがよい。神の御心に背いて神の道を踏み外したまま、長くさまよっていてはならない。心に浮かんでくる罪なる想念、空想、感覚に対し、信仰と謙遜の心で福音書の戒めを想起し、聖太祖イオシフにならってこう言えばよい。「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」[*5] 。内省を心がける人はそもそも一切の空想を捨てねばならない。いかに魅力的でもっともらしい空想でも避けるべきである。いかなる空想も、精神が真理から遊離して幻の国をさまようことである。その幻は存在せず、実現不可能であり、精神を惑わし欺くだけである。空想にふければ、人は自らを省みることができなくなり、祈りのときには精神が散漫になり、心が無感覚になる。その結果として魂の調子は悪くなる。
夜、眠りに就く前に、過ぎ去った一日の行動を振り返ればよい。自らを省みつつ生きている人には難しくはないことである。常に自らを省みていれば、自ら犯した過ちを忘れることもないからである。逆に、散漫な人はとかくそれを忘れやすい。一日を振り返り、言動や想念や感覚で犯した罪をすべて思い出して神の前に痛悔し、心からそれを改める決意を捧げなさい。それから暮れの祈祷を唱え、神に思いを馳せて始めた一日をやはり神に思いを馳せて終えればよい。
眠る人の意識や思いはどこへ消えるのだろうか。睡眠という謎の状態とは何なのだろうか。睡眠中の心身は生きているが、同時に生きてはいない。つまり自らの生を自覚せず、まるで死んでいるかのようである。睡眠は、死と同様に不可解なものである。眠っている間、魂は地上の艱難辛苦を一切忘れて安らかに休む。このような安眠は、魂の永遠の安息を象っている。では、身体はどうか。眠りから覚めて起きる身体は、死からも必ず復活する。聖大アガフォンはこう言った。「力を尽くして『自らを省みる』ようにしなければ、徳を身につけることはできない」[*6] 。アミン。