目に見える世界で、ある対象を詳しく観察する場合、適切な位置を選ぶものである。それも、対象がそれを必要とするからではなく、我々の不完全な視力を助ける必要があるからである。これから、目に見えない世界、楽園と地獄をみていくが、やはり適切な心の位置を選ぶことにしよう。
我々は巨大な宇宙の中にあって微小な存在であり、知識を得る可能性もごく限られている。実際、人類が今まで蓄積してきた知識はごく僅かなものである。人間は、自分自身を知るにも、どうしても神の啓示が必要である。それを痛感することが、最も適切な心の位置であると言えよう。
楽園も地獄も、肉眼には見えない。が、肉眼にはいったい何が見えるというのか。死後の世界はさておき、自信をもって「目に見える世界」と呼んでいる物質の世界でも、肉眼に見える対象はごく限られている。全宇宙の規模からみれば、ほとんど何も見えないも同然である。それを如実に物語るのは、人間が望遠鏡や顕微鏡を使用したり、目に見えない気体を嗅覚等で知覚できたりすることである。人間の視力は、実際、極めて制限されている。地平線の向こうを見ることもできないし、地球の中を覗くこともできない。
また、目に見える自然界でも、人間はいったいどれだけ見ることができるのか。僅かな一部だけではないか。不完全な視力に慣れているから、世界が十分に見えているのだと思い込み、自己満足しているだけではないか。自分の力不足を謙虚に認めた上で、目に見えない世界に心の目を向けることにしよう。その世界は、肉体の感覚には隠されているが、神の恩寵によって解き明かされるものである。
天地創造について語る見神者モイセイによれば、神は東に楽園を植え、楽園に人類の始祖を住まわせられた(創世記、2章8節)。「主・神は造りたる人をとりて、彼を楽園に置きたり、之を理(おさ)め、之を守らん為なり」(創世記、2章15節)。また、主イイスス・ハリストスも言われたように、天国は世の初めから人間のために用意されている(マトフェイ福音、25章34節)。
人類の始祖は、楽園で神の誡めに背いた。神に背くと、始祖の魂と身体が変化し、聖なる楽園には住めなくなった。「是に於て主・神は彼を楽園より出せり、其の取りて造られし所の土を耕さん為なり。アダムを逐い出して、之を楽園の前に居らしめ、ヘルウィムと自ら旋(まわ)る焔の剣とを置きて、生命の樹の途を守らしめたり」(創世記、3章23〜24節)。
神が人を「楽園の前に居らしめた」というのは、地上の自然の美しさが楽園を髣髴とさせ、失われた楽園を人に思い起こさせるものだということを指している。人は、追放先である地上の絶景を見て、思わず「ここは楽園だ」と感激することがある。また、神罰を受ける前のソドムの豊かな土地は、聖書では楽園に喩えられている(創世記、13章24節)。さらに、見神者モイセイは、美しく広大な「園」として、楽園を描写している(創世記、2章9節)。新約教会の聖人の多くも、やはり美しく広い園として楽園を見た。楽園は、実際、そのようなものである。ただし、霊界の一部である楽園は、堕落によって鈍化した我々の感覚では捉えがたいものである。
聖大マカリイは、この世にあって天の富を獲得した人々について、次のように述べている。「そのような人々の同国民、すなわち天使と聖人の霊は、その人々のことを知っており、驚嘆し、こう言っている。『地上にいる我々の兄弟は、大いなる富を得た。この世を去るとき、主が彼らと共におられるので、彼らは大いに喜んで天国に行くであろう。天の住民は彼らを受け入れ、前もって用意した住まい(家や園、ギリシャ語原文では「パラダイス」の複数形)に案内し、高貴な衣装を着せるであろう』」(聖大マカリイ)。
楽園を見たという人によれば、「楽園は下層の天であり、神によって植えられた香り高い園がどこまでも続く。園の木は、常に花が咲き、実がなっている。楽園の真中には川が流れ、四つの支流に分れている」(シナイの聖グリゴリイ)。この川については、「河はエデムより出でて園を潤し、彼処より分れて四つと為れり」(創世記、2章10節)と聖書にも記されている。また、聖預言者ダウィドも「天より上なる水」(聖詠118篇4節)があると言っている。
聖書によれば、楽園は「東の方」にあるという。「東の方」とは、地からみた方角である。克肖女フェオドラは、魂が身体を離れた後、天使に案内され、天の住まいに至るため、東に向かって進んだと話している。妙山の聖シメオンは、また、東に楽園を見た。スズダリの聖エウフロシニヤも、霊夢の中で、やはり東に楽園を見た。正教会の聖堂は、至聖所を東にして建立される。正教信徒は、東に顔を向けて祈る。また、死者の遺体も、顔が東に向くように安置される。楽園が東にあるという聖書の教えはおかしいという人がいるかもしれないが、「今は理解できない事柄を単純に述べることは聖書の常である」というシナイの聖グリゴリイの言葉に耳を傾ければよい。
使徒パウェルは「肉体に在りてか、肉体の外に在りてか、知らず」、楽園、次に第三天に挙げられ、「道(い)い難き言、人の語る能わざる者」を聞いた(コリンフ後書、12章3〜4節)。楽園の自然、天上の美しさ、天国の福楽は、地上の自然、美しさ、この世の楽しいことに比べて、この上なく優れている。聖使徒は、神聖なる恍惚の境地で見聞きしたことを言い表すため、次の表現を用いた。「神が彼を愛する者の為に備えし事は、目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ入らず。惟我等には神己の神°を以て之を顕せり」(コリンフ前書、2章9〜10節)。
この言葉は悲しい事実を含む。深い堕落状態にいる人間は、自分がどのような福楽を失ったかを自ら知ることさえできないのである。罪を好む人間の心は、属神°の楽しみには無関心となった。なお、堕落した人間の哀れな状態を言い当てた先の言葉は、同時に喜ばしい事実をも伝えている。神を信じ、罪を悔い改めて、新しいアダムである主イイスス・ハリストスの霊的一族に入った人々は、聖神°によって新しくされるのである。
聖神°は、人の心に宿ると、心を支配する罪を打ち破り、心内の戦いや混乱を無くし、ハリストスの平安を導き入れる。ハリストスの平安は属神°の楽しみをもたらすが、その楽しみに与った心は罪には無関心となり、常に神と共にあるようになる。聖神°は、神の国を心に宿らせた後、この世を越えた世界、義人のために用意された天上の住まいへと、相応しい人を引き上げることもある。多くの聖人は楽園に挙げられ、楽園から天に昇り、さらに諸天の天、火のセラフィムやヘルウィムに囲まれた主の宝座まで昇らせてもらった。そのような聖人が楽園について話したことは、互いによく似ている。例えば、妙山者聖シメオンは、楽園にあって美しい園や始祖アダムの魂、また、神人によって贖罪後初めて楽園に入れられた盗賊の魂などを見たという。
楽園を見た聖人の異象の中では、佯狂者聖アンドレイの体験談が特にわかりやすく詳細にわたっている。聖アンドレイは、超自然の方法によって、目に見えない世界を二週間ほど旅した後、親友の司祭ニキフォルにこう打ち明けた。
「私は、美しく驚くべき楽園にいる自分を見て、『どうしたのだろう。住んでいるのはコンスタンチノープルなのに、どうやってここに来たのだろうか』と、うっとりして思った。私は、稲妻で織ったような光の衣をまとい、頭には豪華な花の冠を被り、王様のような帯をしていた。その美しさを喜び、神の楽園の言い表せぬ麗しさに心から驚き、楽園を歩き回って楽しんだ。
数々の園には高い木がたくさんあったが、その梢は揺れて目を楽しませ、枝は大いなる香りを放った。常に咲いている木や、黄金のような葉の木、この上なく素晴らしい果実の木もあった。その木々は、地上の木のどれにも似ていない。その木を植えたのは人ではなく神の手なのだ。
園には、黄金のような羽の鳥、雪のように白い鳥、鮮やかに彩られた鳥など、無数の鳥もあった。鳥は、楽園の木の枝に止まって美しく鳴いていた。私は、その甘美な鳴き声にうっとりして我を忘れた。その鳴き声は、天の高いところまで届くようだった。これらの美しい園は、向かい合うように並び、どこまでも続いた。
心から楽しんで園の間を歩き回っていると、大きな川があった。川は園の間を流れ、園を潤した。川向こうには葡萄園があり、黄金のような葉や房に飾られた葡萄の木が生い茂った。静かな、香り高い風が四方から吹き、園の木を揺らし、枝の葉にきれいな音をさせた」(佯狂者聖アンドレイ伝)。
克肖女フェオドラの談によれば、優れた聖人である新ワシリイの楽園の住まいも光栄に満ち、黄金の葉や多数の果実の園がたくさんあった。案内役の天使に楽園を詳しく見せてもらったフェオドラは、次のように語っている。
「私は、神を愛する人のために用意された各種の住まいを見た。それらの住まいは、光栄と恩寵に満ちていた。案内の天使は、使徒の家、預言者の家、致命者の家など、それぞれの聖人の住まいを個別に見せてくださった。それぞれの家は言い尽くせないほど美しく、喩えるならばコンスタンチノープル城のように広く、同時にコンスタンチノープルより何倍も綺麗であり、人の手によらない広大な光の部屋が幾つもあった。それらの住まいには、どこもかしこも喜びの声が聞こえ、楽しみ祝う人が大勢いた。誰もが、私を見かけると、歓迎して私の救いを心から喜び、私を敵の網から救ってくださった主を讃美した」(聖新ワシリイ伝)。
繰り返すが、地上の自然界は、わずかに楽園を髣髴とさせるものであるに過ぎない。楽園の美は名状しがたく、不朽であり、神聖な平安と恩寵に満ちている。始祖が罪に堕ちた後、地は造物主の呪いを受け、絶えない混乱に陥った。地震が町や村を沈め、洪水や津波が国を滅ぼし、雷、嵐、雹などによる被害が出るようになった。地上の人類は、公私ともに絶えず闘争し、多種多様な苦難に耐え、休まずに労し、無数の罪や凶悪な犯罪を行い、バベルの塔を建て続けている。徳行はごく稀であり、苦労を伴う。容赦なき死は地を歩き回り、人の世代を次から次へと呑み込んでいく。造物主が人類のために定めた生殖の法則にしたがって、新しい世代は次から次へと生まれ、死によって亡びてゆく。このような状況は、この世界が全滅し、それと共に死も滅びる時まで、ずっと続くであろう。さらに、地上に生息する動物も互いに敵対し、容赦なく殺し合うようになった。大自然は、絶え間ない衝突の様相を呈している。地上の万物は戦い、苦しみ、滅ぼし合っている。そして、このような恐ろしい混乱は止まるところを知らないではないか。激烈を極めた衝突は、地上の至る所で起きているではないか。これらのことは、混乱、衝突の渦中にいる人には気づきにくいが、人里離れた修道院に身を寄せた者には判然とすることである。静かな修道院に住んでいる者は、楽園を思い起こして嘆くために、神が「楽園の前に居らしめ」た旅人である(ダマスカスの聖ペトル)。我々の地は神から呪われた地であり、流刑の地、苦難・迷妄・凶悪・死の跋扈する地である。この地は、神の定めによって、やがて火に焼き尽くされるであろう(ペトル後公書3章7節、同10節)。そのような地でも感激に値する美があるくらいだから、神がその愛する者のために永遠の福楽の住まいとして用意してくださった楽園はどれほど美しいだろうか。「神が彼を愛する者の為に備えし事は、(肉体の)目未だ見ず、(肉体の)耳未だ聞かず、(肉体のことしか思わない)人の心に未だ入らず。惟我等には神己の神°を以て之を顕せり」。
聖アンドレイは、聖使徒パウェルのように、楽園だけでなく第三天まで挙げられた。右に引用した楽園の話に続き、聖アンドレイはこう語った。
「その後、私は恐怖して、天空より高く立っていることがわかった。私の先には、太陽のような顔をした青年が歩いていた。その青年の後について行くと、虹のような、大きく美しい十字架があった。十字架の周りには火のような歌い手が立っており、甘美な歌を歌い、甘んじて十字架にかかった主を讃美していた。私を導いた青年は十字架に近づいて接吻し、私にもそうするように合図した。私は、大きな喜びと畏れを抱いて聖なる十字架に近づき、熱心に接吻した。十字架に接吻するとき、私は言いようのない霊的な喜びに満たされ、楽園よりも強い香りを覚えた。
十字架のもとを離れて見下ろしてみると、下には深淵があった。私は空中を歩いていることが気になって怖くなり、『下に落ちたらどうしよう』と案内者に訴えた。案内者は『怖がらなくてよい。これから上に昇っていく』と答え、手を差し伸べた。その手をつかまえると、私たちは第二の天より高いところに移動した。そこで目にした妙なる聖徒の安らぎは、筆舌に尽くしがたい喜びに満ちていた。
その後、私たちは不思議な火の中に入った。その火は身を焼かず、私たちを光に満たした。私は怖くなったが、案内者はまた手を差し伸べて『これから、さらに上に昇る』と言った。すると、私たちは第三の天より高く移動し、神を讃美する天軍を見て、稲妻のように光る幕の前に来た。幕の前には、火のような恐ろしく背の高い青年が立っていた。その顔は太陽よりも強く輝き、手には火の武器を持っていた。周りには無数の天軍が畏れて立っていた。私を案内した青年は『幕が開いて主ハリストスを見たら、主の光栄の宝座に伏拝しなさい』と言った。それを聞いて、私はおののき喜んだ。また、恐怖と、説明しがたい歓喜に包まれた。そして、いつ幕が開くか待った。ある火の手が幕を開けると、私は、昔預言者イサイヤが見たように、わが主を拝見した。主はセラフィムに囲まれ、高く挙がった宝座に就いておられた。また、赤紫の衣を召し、顔は言い尽くされぬ光に輝いた。主は、愛に満ちた目を私に向けてくださった。主を拝見すると、私はひれ伏し、主の、この上ない光に満ちた、畏るべき光栄の宝座に伏拝した。主の顔を見て、名状しがたい喜びが心に満ち溢れた。今でも思い出すと、その時の言いようのない喜びがよみがえる。
私は、どきどきして主の前にひれ伏し、私のような汚らわしい罪人が主の前に参って、主の神聖なる善美を拝見することを許してくださった主の慈しみを思って驚いていた。自分がいかに不当であるかを思い、主の威厳を見て感動し、『禍なる哉我や、我亡びん、蓋し我は唇穢れたる人にして、我が目は王たる主を見たり』(イサイヤ書、6章5節)という預言者イサイヤの言葉を繰り返した。すると、憐れみ深い主は、この上なく清く甘美な口によって、神聖な言葉を三言、私におっしゃってくださった。主の言葉は私の心を楽しませ、主への愛を燃え立たせた。霊的な暖かさが働き、私は蝋燭のように溶けようとした。そのとき、『我が心は蝋の如くなりて、我が腹の中に鎔(と)けたり』(聖詠21篇15節)というダウィドの言葉が、私に成就した。
それから、天軍は神妙で言い尽くせない歌を歌い上げた。すると、私は知らないうちにまた楽園を歩き回っていた。至聖なる生神女にはお会いできなかったな、と思うと、十字架を手にした光のお方が現われ、『天軍を司る至聖なる女王に会いたいのか。女王は今ここにはおられない。人を助け、悩める者を慰めるため、多難な世に行っておられるのだ。生神女の聖なる住まいを見せてあげたいのは山々だが、もう時間がない。あなたは、主の命令によって元の場所に戻らなければならない』と、私に言った。すると、私は快い眠りについたようになった。目を覚ましたら元の場所にいた」。
聖アンドレイの異象からわかるように、楽園は地に最も近い天の住み処、換言すれば第一の天である。第一天の上にはその他の天がある。聖ダウィドはそれらを「諸天の天」(148聖詠4節)として詠っている。このような天の住み処には今、義人の魂がそれぞれの階級にしたがって住んでいる。また、義人の身体は、復活して魂と結ばれると、やはり天の住み処に移され、「雲に挙げられて、主を空中に迎えん、是くの如くして常に主と偕に居らん」(フェサロニカ前書、4章17節)。
人祖アダムは、創造されて地から楽園に挙げられたが、義人も、救世主によって贖われた人として、やはり楽園に挙げられるであろう。義人の身体は、アダムの身体と同じように、楽園に昇れるものとなるであろう。聖大マカリイによれば、復活後、身体も霊となるという。