「爾等(なんじら)はエジプトの地より出づる日を生涯想い起こすべし」[*1]。
死は大いなる神秘である。死は、人がこの仮の世を去って永遠の世に生まれることである。死ぬとき、人は肉体を脱ぎ捨て、霊魂がこの世とは別の世界、霊界に行く。霊界は目に見えないなど肉体の五官ではとらえることができない。とはいえ、肉体の五官を通じて働く感覚はそもそも霊魂のものである。目に見えない霊界と同様、肉体を離れた霊魂は目に見えないし、接することもできない。人が死ぬとき、目に見えるのは呼吸が停止し、身体が突然生命を失うことのみである。それから遺体は腐敗するので、急いで埋葬される。埋葬された遺体は朽ち果て、やがて忘れ去られる。これまで、幾世代もの人がこのように死去し、忘れ去られてきた。さて、肉体を離れた霊魂はどうなるのか。それは、人知をもって知ることのできない神秘である。
死は奥深い神秘である。ハリストス教の光が人類を照らすまでは、たいていの人は霊魂不滅についてごく拙劣で誤った認識を持っていた。異教の大賢も霊魂不滅を推測、推論したに過ぎない。しかし、陥罪した人間の心も、いくら暗く鈍くとも、常に自己の永遠性を感じてきた。偶像を崇拝する宗教もすべてそれを物語っている。どれも死後の生命を約束し、生前の功罪に応じて死後の禍福を約束するからである。
短い間この世を旅するわれわれは、自分の永遠の行く末について知っておく必要がある。この世の短い旅の間でも、できる限りつらいことを避け、楽しく過ごすように気を配るが、永遠の行く末に気を配るのはいっそう必要なことではないか。死はわれわれをどうするのか。この世を去った後、霊魂は何に出会うのか。人がこの世でなす善悪に対し、死後の報いはないのだろうか。この世ではとかく悪が成功し勝つ一方、善は迫害され苦難を受けがちであるが、はたしてその報いはないのだろうか。われわれは是非とも死の神秘を解き明かし、肉体の目には見えない人の死後を見ておく必要がある。
死の神秘を明らかにしてくれるのは、神の言葉である。また、神の恩寵によって清められ、鋭くなった感覚は、聖神の働きによって死の神秘を洞察することができる。使徒パウェルが述べるように、聖神は人の神秘だけでなく「神の深きをも察する」[*2]からである。
死は、霊魂が身体を離れることである。神の意志によって結ばれた霊魂と身体は、やはり神の意志によって互いに離れるのである。霊魂と身体が離れなければならなくなった理由は、人が罪に堕ちたことである。本来、不朽のものとして神によって創造された人の身体は、人が罪に堕ちた結果、不朽でなくなったのである。死は、不死の人が神に背いて処せられた罰である。人を構成する身体と霊魂が死によって痛く互いに切り離され、死後、人はもはや存在しなくなる。というのは、霊魂が別に存在し、身体が別に存在するようになるのである。