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   身体が死の眠りについた後、霊魂はどうなるか? 神の言葉が教えるように、身体を離れた魂は、その人が生前身につけた性質の善悪に応じて、光の天使、もしくは堕ちた天使に加わることになる。人間の霊魂は天使と同類の生き物であり、天使と同様、善良な性質の持ち主と、邪悪な性質の持ち主の二種類に分かれる。なお、天使も人間も、本来、無垢で聖なる存在として創造されたが、善良な性質を身につけるか、邪悪な性質を身につけるかは、それぞれの自由意志に委ねられた。聖書と聖師父の著書をひもとき、この事実を明らかにしてみよう。

   主イイスス・ハリストスは、十字架の上で悔い改めた盗賊に「我誠に爾に語ぐ、爾今日我とともに楽園に在らん」と言い、盗賊の魂が十字架から真っ直ぐ楽園に行くことを約束された[*1]

   難病に苦しんだ貧しいラザリは、死後、天使に導かれて「アウラアムの懐」という楽園の区域に置かれたが、毎日贅沢に遊んで暮らした薄情な金持ちは死んで地獄に落とされた[*2]

   奥義を窮めた神学者聖イオアンによると、身体を離れた義人の魂は身体の復活を待って天上の福楽を享受しているが、罪人は地獄にあってひどく苦しんで復活を待っているという[*3]。復活のラッパが鳴れば、天上の義人の魂は楽園から呼び出され、身体と再び結ばれるであろう。四日間も墓に入って腐敗しかけたラザリが主イイスス・ハリストスの声を聞いてよみがえったように、義人の身体も、神の子の声を聞いてよみがえる[*4]。また、罪人の魂は、地獄から呼び出され、恐るべき審判を受けることになる。それぞれの判決が下されると、義人の福楽は倍増し、罪人も地獄に戻って数倍苦しむことになる[*5]

   復活後の義人の状態については、「彼等は天使等とr(ひと)しく、神の使い等の如く天に在るなり」[*6]と、主イイスス・ハリストスは教えられる。主は、再臨して最後の審判を行うとき、右に立つ義人に「我が父に祝福せられし者よ、来りて、創世以来爾等のために備えられたる国を嗣げ」と告げるが、左に立つ罪人には「詛われし者よ、我を離れて、悪魔及びその使い等のために備えられたる永遠の火に往け」と告げる[*7]

   さらに、義人の報いにも、罪人の報いにも、それぞれ少なからぬ差があることも確かである。正しい神の審判は「各人にその行いに依りて報いん」[*8]。天国には無数の住まいがあるし、地獄にも多種多様な牢や責め苦があり、知っていて罪を犯した者は「多く打たれ」、知らないうちに罪を犯した者は「少なく打たれん」[*9]

   聖なる天使と共に永遠の福楽を受け継ぐのは、敬虔に一生を過ごし、または心から罪を悔い改め、司祭の前で痛悔して罪を清めた正教のハリスティアニンのみである。なお、ハリストスを信じない者、異端を信奉する者、及び正教のハリスティアニンの内、罪深く一生を過ごし、または死罪を犯して痛悔しなかった者は、堕天使と共に永遠の苦しみを受け継ぐことになる。

   東方正教会総主教の教書[*10]では、次のように述べられている。「もし人は、死罪に堕ちても臨終の際に絶望せず、死の前に痛悔機密を受けたが、時間がなく悔改の実(祈り、涙、痛悔、慈善行為、神と隣人への愛の行い等)を結ぶことができなかった場合、その人の魂は地獄に降り、犯した罪について刑罰を受ける。ただし、その刑罰は軽減されることもある。限りない仁慈によって刑罰が軽減されるのは、(親族などが)永眠者に代わって慈善を施すことによってであり、また、聖職者が死者のために行う祈祷、特に各信徒の親族等を記憶して行う無血祭(聖体礼儀)の力によってである」。

   罪人の死は恐ろしいが、敬虔な人、聖なる人の死は、この世の煩いから永遠の安らぎに、絶えない苦しみから尽きぬ喜びに移ることである。そのような人は、地から天に移り住んで無数の聖天使と聖人の仲間に入り、天上にあって飽きることなく神を見続け、絶えず神への愛に燃えることを最大の喜びとする。

   エジプトの聖大マカリイは、次のように述べている。「人の魂が身体を離れるとき、大いなる神秘が行われる。魂が罪を犯したなら、悪鬼の軍が魂を迎えて魔界に連れ去る。それもさほど驚くべきことではない。この世で悪魔の奴隷になった人は、世を去って悪魔に捕らえられるのも無理からぬことである。また、よい状態についていえば、神の聖なる僕は、この世にあっても聖なる天使に囲まれて守られ、また、身体を離れると、やはり聖天使の隊に迎えられ、聖なる天界に上げられ、主のもとへと案内される」[*11]



[*1]    ルカ23:43。⇒「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(ルカ23:43)。
[*2]    ルカ16:19-31。⇒「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:19-31)。
[*3]    黙示6:10-11, 20:13。⇒「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた」(黙示6:10-11)。「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」(黙示20:13)。
[*4]    イオアン5:25。⇒「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:25)。
[*5]    「願わくは悪者、凡そ神を忘るる民は地獄に赴かん」(聖詠9:18)。⇒「神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府(よみ)に退く」(詩編9:18)。
[*6]    ルカ20:36、マトフェイ22:30。⇒「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(ルカ20:36)。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:30)。
[*7]    マトフェイ25:34-41。⇒「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』」(マタイ25:34)。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』」(マタイ25:41)。
[*8]    黙示22:12。⇒「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(黙示22:12)。
[*9]    ルカ12:47-48。⇒「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む」(ルカ12:47-48)。
[*10]    (訳注)1723年、コンスタンチノープル、アンティオキア、エルサレムの総主教等によって発行され、正教会の教理を要約した文書である。
[*11]    聖大マカリイ、第22講話。⇒「人の霊魂(たましい)の体より出づるや、此の時に或る大いなる秘事は成らん。けだしもし霊魂は罪を犯せしならば、魔鬼の群来たり、不善の使いと暗黒の力とは彼をうけて、自己の権中に取り去らん。誰もこれを怪しむべからず、何となれば霊魂は此の生命(いのち)に於て此の世にありてさえ彼等に属し、従順にして彼等の僕となりたれば、まして世を逝(さ)るときは、彼等の為に止められて、其の権中に在らん。しかれども善なるものに至りては、事は左の如くなりと想うべし。神の聖なる諸僕の傍らには今もなお天使等居りて、其の聖なる諸神はこれを繞(めぐ)り且つ護る。されば体より出で去るときは、天使の諸隊は霊魂を自己の権中に清き世にうけ、かくて彼等をみちびきて主に至らん」(堀江復訳『克肖なる神父埃及マカリイ全書』、明治38年12月、正教会編輯局、250-251頁、「此の生命(いのち)を去る者の二様の状態」)。



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