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人間の魂のためには、天使と同じ住まい、同じ賞罰が用意されているが、このことだけでも、人の魂が天使の同類であることがわかる。それは、復活後の義人が「天使のようであり、天使に等しい」という主の言葉からも明らかである。

アウラアム、ロト、イアコフなど、古代の義人に現われた天使は人間の姿をしており、見ているのが人間ではなく天使であるとわかるのにしばらく時間が必要であった。また、ハリストスの復活後、天使は光り輝く白衣を着た人の姿で携香女に現われた(ルカ福音24章4節、イオアン福音22章12節)。さらに、ハリストスが昇天する際、天使はやはり白衣をまとった人の姿で使徒に現われた(聖使徒行実、1章10節)。聖師父も、光り輝く白衣の人として天使を見、悪鬼を真っ黒で醜い姿の人として見たという話が数多くある。

ハリストスの復活後、一堂に会した使徒の中に主が突然お立ちになったとき、使徒は霊を見ているのだと思って怖くなったが、主は「何ぞ懼れ惑う、胡為(なんす)れぞ此の意(おもい)は爾等の心に起れる。我が手、我が足を視よ、是我自らなり、我に捫(さわ)りて視よ、蓋し神°(しん)には骨肉なし、其の我に有るを見るが如し」(ルカ福音、24章38〜39節)と言い、復活した主の身体の顕現が霊の顕現とは違うことを説明し、使徒を安心させられた。主は「神°(=霊)には肉や骨がない」と言っているが、「霊には姿形がない」とは言っていないので、霊(すなわち、天使と人間の霊魂)に姿形があると推量することができる。

牢屋に入れられた使徒ペトルが、奇蹟の結果、自由に外に出た後、エルサレムの信徒が集まった家に来ると、ロダという女中は、ペトルが門口に立っていることを皆に報告した。すると、信徒は、来ているのがペトル自身ではなくペトルの守護天使であると判断して「是れ即ち彼の天使なり」(聖使徒行実、12章15節)と言い、霊に姿形があるという認識を表明した。

聖大マカリイは、霊魂の姿形について次のように教えている。人間の霊魂にも天使にも姿があるが、その姿は人体の外形と同じである(第7講話)。天使と霊魂は、幽かな体である。人間の肉体は重く物質的であるが、天使と霊魂の幽体は極めて薄く軽い。重い肉体は、霊魂の幽体がまとっている衣である。霊魂の目、耳、手足等には、似たような肉体の目、耳、手足等が装着されているのである(第4講話)。魂は、死によって身体を離れるとき、衣類のように身体を脱ぎ捨てる。完全な徳を修め、聖神°によって清められたハリスティアニンは、霊魂の姿を見ることを賜わることがあるが、そのような例は聖人でも稀にしかない(第7講話)。また、聖神°の祈りによって祈る人の魂は、祈りの最中、特別な聖神°の働きによって身体を離れることがある(第6講話) 。

修道生活の最盛期に当たる聖大マカリイの時代でも、霊魂の姿を見ることができた聖なる修道士は少数であったという。だから、現在、そのような人はもっと少ないであろう。しかし、主イイスス・ハリストスは世の終わりまで忠実な弟子と共にいることを約束され、神の大いなる憐れみによって、そのような人は現在もいたりする。そのような体験をした修道士の話によれば、祈っていると、神の恩寵が特に豊かに働いて、突然、魂が身体を抜けて空中に立ったという。なお、その魂は極めて軽く飛びやすい幽体であり、姿形が肉体の姿形と同じで、手足、髪、顔などの容貌もそっくりであった。また、意識や思考力が具わっているばかりでなく、生命のすべてが魂にあり、身体は脱ぎ捨てた衣類の如く、死んだように椅子に残っていた。しばらくすると、神の指揮によって、魂は、身体を抜ける時と同じように理解しがたく身体に戻ったという。

天使は、人間の霊魂に似ている。つまり、首、目、口、胸、手足、髪などを具えており、端的にいえば、目に見える人間の身体に酷似している。聖天使の顔は、高徳の美や神の恩寵に輝いている。特に敬虔なハリスティアニンも、似たような顔をしている。また、堕天使の心はどこまでも邪悪であり、その顔も犯罪者など極悪な人間の醜い顔に似ている。天使と悪霊を見たという人が、そのように天使と悪霊を描写しているのである。

天使と霊魂は、人間のような肉体を持っていないから、普通、「身体を持たない」「無形」のものと呼ばれる。また、物質的世界の物体と全く異なる幽かな存在であるから、「霊」(正教会では「神゜」)と呼ばれる。「霊」という呼び方は、一般的な日常語としても、聖書と聖師父の著作の用語としても定着している 。天使と霊魂の体質は、目に見える地上の物質に比べて限りなく軽く幽かである。我々は、普段の堕落状態では霊を見ることができないが、慎み深く敬虔な生活を送っていれば、霊(天使と悪霊)が我々に及ぼす影響を感じ取ることはできる。恩寵の働きによって、心の中で明確に霊を感じることは、心眼による霊視である 。

ギリシア語の聖書や聖師父の著作では、風、空気、蒸気などの気体は、「プネウマ」(「霊」「神゜」「精神」「気」、ロシア語では「ドゥーフ」)と呼ばれることが普通である。例えば、福音書では、主は聖神°の働きを風に喩えているが、「風」に相当するギリシャ語は「プネウマ」である 。しかし、狭義で「プネウマ」であると言えるのは神のみである。神は、この上なく完全な存在であり、神の本性は、あらゆる被造物の本性とは限りなく異なる。他の被造物に比べて幽かで完全な被造物の場合もそうである。神と同じ本性の存在は、神の他にはない! 故に、本性として「神°」である存在は、神の他にはないのである。

「神は神°(プネウマ)なり」(イオアン福音、4章24節)。「天使等に及びては曰く、爾は其の使者を以て風(プネウマ)と為し、其の役者(えきしゃ)を以て火焔と為す」(エウレイ書、1章7節)。その神は、罪によって凍った我々の心に火を投じ(ルカ福音、12章49節)、我々を神に結合させて悪魔には近寄りがたい不朽の火焔、風(プネウマ)となすため、人となられた。なお、堕天使も、救い難い罪人の霊魂も、真の生命、真の霊(プネウマ)性とは無縁である。

来世にあって霊魂が置かれる住まいは、霊魂の幽かな性質に合ったものである。つまり、楽園も地獄も、霊魂の性質に適応して幽かなものである。聖なる人の魂は、この世にあって自己を清めて心の天国を霊的に楽しむばかりでなく、死後も、神の慈しみによって永遠の福楽を享受し、天上の住まいに置かれる。また、神に容れられぬ罪深い魂は、良心の呵責に苦しむばかりでなく、「地獄」「ゲエンナ」「タルタロス」と呼ばれる恐るべき地下の獄に入れられ、霊魂の幽かな性質を苦しめるに足る苛酷な責め苦を受けることになる。これは聖書に語られ、聖神°によって選ばれた人々にも啓示されていることである。なお、この啓示は、魂の救いのためには極めて有益なものである。


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