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蕩子の主日の説教

悔改について

(ルカ15:10〜32)


   聖なる教会は信者を子として産み、救いに導く慈母である。子が受け継ぐべき天国を失わないよう、母はあれこれと子たちの世話を焼く。大斎の時期が間近に迫る本日の聖体礼儀では、聖なる教会は信者に好結果の大斎を全うさせようと、主イイスス・ハリストスの「放蕩息子」のたとえを聞かせている。

   大斎の時期とは何か? 悔い改めの時期である。その時期が迫っている今、われわれは悔い改めの門の前に立ち、「生命を賜う主よ、我に痛悔の門を啓けよ」という傷感に満ちた聖歌を歌う。本日の福音のたとえは何を教えてくれるか? 悔い改める罪人に対し、天の父は理解し尽くせない無限の憐れみを垂れる、ということを教えてくれる。主は「神の使いらの前には、ひとりの悔い改むる罪人のために喜びあり」[*1]と言って人に悔い改めを呼びかけ、この言葉をより深く人の心に刻ませるため、次のたとえを話された。

   ある富裕な人に息子が二人いた。下の息子は父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。父親は承諾した。何日もたたないうちに、息子は財産をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方に飢饉が起こった。食べるにも困り始めた息子は、その地方に住むある人のところに身を寄せたが、畑にやられて豚の世話をさせられた。不幸にもひもじい思いをし、豚の餌を食べてでも腹を満たしたかったが、それさえさせてもらえなかった。そこで、我に返って裕福な実家を思い出し、父のもとへ帰ろうと決心した。父に赦してもらうため、「罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。家族ではなく雇い人の一人にしてください」と言おうと心に決め、帰途についた。まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子が用意しておいたことを話すと、父親は僕たちに言った。「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。いつも父の意志に従ってきた上の息子が、祝宴の最中に畑から帰ってきた。弟への父の対応を見て不思議がった。しかし、父親は何よりも大切な愛に動かされ、反論した。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。[*2]

   ブルガリアの福フェオフィラクトをはじめとする聖師父の解釈によると、「下の息子」とは陥罪した人類、またひとりひとりの罪人を指す。「財産の分け前」とは、全ての人、特にハリスティアニンが豊かに受けた神の賜物である。最も優れた賜物は人間の知能と心、そして特にハリスティアニンに与えられる聖神の恩寵である。

   財産の分け前を好き勝手に使いたいという要求は、人間が神に従おうとせず、自分の欲望のまま好き勝手に生きようとすることを意味する。父親が財産分与を承諾したのは、人間が神の賜物をどう使うかについては、神は完全な自由をお与えになるということである。

   遠い地方とは、われわれを神から引き離す罪深い生き方である。財産を使い果たすことは、知力・心力・体力を浪費し、特に罪なる行いによって聖神を辱めて失うことである。

   息子の極貧状態とは、心が罪に生きて陥る空虚を意味する。遠い国に住む人とは「暗闇の世界の支配者」[*3]、つまり堕落して神から遠ざかり、いつまでも神に背いている悪霊である。罪人は悪霊の支配下にあるのである。

   汚い豚たちとは、罪人が心の牧場で放し飼いにしている罪なる思念である。罪なる行為を重ねていけば、必ず罪なる思念の奴隷となる。こうした欲念から解放されたいと思って欲念を実行しても無駄である。欲念は実行されても消えず、かえって刺激され、ますます強くなる。人間は天のために創造され、人間を満たし生かす糧は善である。悪は、陥罪によって狂わされた心の感覚を惑わし、人間の性質を曲げる。

   心が罪に生きて陥る空虚な状態は恐ろしい。蛆のように湧いてくる邪念や欲念に悩まされる心の苦痛は耐えがたい。罪人は、邪念、夢想、実現不可能な欲望に苦しめられて絶望し、生命を絶とうとすることもよくある。そして、この世における生命を絶つと共に、己の永遠の生命をも絶ってしまう。このような苦しいとき、我に返り、天の父の限りない愛を思い起こし、天の父の家である聖なる教会の限りない属神の富を思い起こした罪人は、幸いである。自己の罪を省みてぞっとし、のしかかる罪の重さから自由になりたいと思い立ち、悔い改めようと決心した罪人は、幸いである。

   放蕩息子のたとえは次のことを教えてくれる。善き実を結ぶ悔改のために必要なのは、己の罪を見、罪を認め、罪を悔い、罪を告白することである。このような心で神に向かえば、「まだ遠く離れているのに」、神は人を見て、速やかに迎え、恩寵によって抱擁し、接吻する。悔い改める人が罪を告白するや否や、仁慈なる主は主の僕である聖職者と聖天使に言いつけて、彼に光明なる無垢の衣を着せ、地上・天上教会との一致回復を証する指輪をはめさせ、ハリストスの戒めという履き物をはかせる。神の戒めを履けば、行いを茨(いばら)から守ることができる。父の愛の頂点として、帰ってきた息子のために愛の食卓が用意され、肥えた子牛が屠られる。「食卓」とは教会の祭壇を指し、神と和解した罪人は食卓に就き、朽ちざる属神の飲食にあずかる。その飲食とは、古から人類のために約束され、言い難き神の仁慈によって、陥罪した人類のためにその陥罪の瞬間以来用意されている、ハリストスのことである(訳注:主イイスス・ハリストスの聖体尊血を領聖することを指している)。

   放蕩息子のたとえは神聖な教えである。神の言葉はわかりやすい表現を使っているが、その内容は極めて深遠である。聖なる教会が大斎の前にこのたとえを信者に聞かせるのは賢明である。悔改の門の前に立って思いが乱れる罪人にとって、「天の父は悔い改める罪人を限りなく憐れむ」という知らせほど嬉しいものはない。神の憐れみは広大で、一度たりとも神の戒めを犯していない聖天使(天の父の上の息子)も驚くほどである。明晰かつ高度な知能を持つ天使たちでも、陥罪した人類への神の計り知れない憐れみを理解しきれず、神の啓示が必要であった。天使たちは神の啓示を受け、「お前たちの弟である人類は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。楽しみ喜ぶのは当たり前だ」と学んだ。「神の使いらの前には、ひとりの悔い改むる罪人のために喜びあり」。

   愛する兄弟よ、聖なる教会が大斎の準備期間として定めた時期を正しく利用しよう。罪を悔い改めて神と和解し、神に結ばれようとする人、また全人類に対し、神が大いなる憐れみを示してくださることを静観し、この時期を過ごそう。人生の時間は限りなく貴重なものである。われわれはこの時間で自分の永遠の運命を決定するからである。願わくは、その運命は救いであり、喜びであることを! 願わくは、その喜びはいつまでも終わらず、聖なる天使たちの喜びと一つになることを! 願わくは、天の父の御心が行われ、天使と人の喜びが完全なものとなることを! 「この小子(罪に虐げられて小さくなった人々)の一人の亡ぶるは、天の父の旨にあらず」[*4]。アミン。



[*1]    ルカ15:10。⇒「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15:10)。
[*2]    ルカ15:11-32参照。
[*3]    エフェス6:12。
[*4]    マトフェイ18:14。⇒「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)。