目次



生神女の祭日に読まれる福音に関する説教[*]

「心身の修練について」


   救世主は、人類が楽園から追放され苦しむことになった地上を旅していたある日、二人の敬虔な女性の家を訪ねられた。二人は実の姉妹でマルファ、マリヤといい、家はエルサレム近郊の村、ベタニアにあった。二人にはラザリという兄弟がいた。神人から「我等の友ラザリ」と言ってもらえた人である[*1]。福音書を読むと、主は墓に入って四日も経ったラザリを生き返らせるなど、この敬虔な一家を数回訪ねておられることがわかる。

   さて、聖福音記者ルカによると、ある日、主は二人の家を訪ねられた。マルファはごちそうを出して待望の客をもてなし、せわしく立ち働いたが、マリヤは主の足もとに座ってその言葉に聞き入っていた。マルファは最高のもてなしをしようとして、主に「妹も手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言った。ところが主はこうお答えになった。「マルファよ、マルファよ、爾は多くの事を慮(おもんぱか)りて心を労せり、然れども需(もと)むる所は一つのみ。マリヤは善き分を択(えら)びたり、これは彼より奪うべからず」[*2]。聖師父の解釈では、マルファは敬虔な信者の身体的修練を象徴し、マリヤは精神的修練を象徴している[*3]。教会の制定では、この二姉妹が登場する福音は生神女のすべての祭日に読まれることになっている。このことから、この物語は極めて重要な教訓を含んでいることがわかる。そこで、その中の出来事と教えについて詳しく考えてみたい。

   マルファは姉であり、家のことを取り仕切っているように描かれている。救世主を家に迎え入れ、ごちそうの手配や食卓の用意をし、料理を作ったり出したりしている。マルファの奉仕は絶え間ない活動である。身体的活動は、ハリスティアニンが心身を修練するにあたり、長幼の序として第一位を占めるものである。シリアの聖イサアクはこう述べている。「身体的実践が先で、精神的実践は後である。アダムも身体の創造が先で、魂の創造は後であった。身体的実践を身につけておかなければ、精神的実践をすることもできない。麦の粒を蒔いてはじめて麦の穂が出るように、身体的実践を積んではじめて精神的実践が芽生えるのである」[*4]。身体的修練とは、身体を使って福音書の戒めを実践することである。具体的には、物質的な施しをし、旅人をもてなし、困っている人を助け、苦しんでいる人に救援の手を差し伸べる。また、身の純潔を守り、腹を立てないようにし、贅沢・遊興・安逸を避け、言葉を慎んで人の悪口などを言わないようにする。さらに、斎を守り、目を覚まして祈り、聖詠を唱え、伏拝をし、聖堂に参祷し、自室で私祈祷に立ち、修道院の労働に従事するなど、外面的修練のことである。こうした身体的修練を積むには、絶えず身体を動かさなければならない。一件の善行を終えたらもう一件の善行を始め、ときには数件の善行を同時に進めるのである。身体的修練を積むことにより、魂は次第に諸慾から浄化され、福音書の精神を知っていく。福音書の戒めを実際に行う人は、戒めに秘められた深い考え、深い思いを徐々に体得して真理を知り、聖神と命を受ける。身体的修練には限界があり、終わりがある。その限界、終わりとは、修練する人が最終的に属神の修練に移行することである。最終的な移行は段階的な移行を完成させる。マルファの奉仕が終わったのも、主へのもてなしが完成したときである。

   マリヤは「イイススの足下に坐して、その言を聴けり」[*5]。マリヤが主の足もとに座っている姿勢は、神の恵みによって属神の修練を始めることができた魂の境地を象徴している。平穏と謙遜の境地である。聖大バルサヌフィオスはこう述べている。「内面的実践をするとともに心の中で痛悔の涙を流していれば、心は真の静寂を得る。この静寂から謙遜が生まれる。謙遜は人を神の住まいとする」[*6]。精神で神に仕える境地を達成した者は、外面的実践をやめ、神に喜ばれる他の方法に気を使わなくなり、どうしても必要な場合に限って控え目にそれを用いる。精神で救世主の足もとにひれ伏し、主おひとりの言葉に耳を傾けている。自分は神の被造物であって、自主独立した存在ではないと認識している[*7]。また、自分は手入れをされるぶどうの枝、神は手入れをする農夫であると認識し[*8]、救世主の御心と導きに一身を委ねている。当然、魂がこのような境地を達成するには、ある程度長い身体的修練を積んでおかなければならない。マリヤも主の足もとに座り、その教えをひたすら聴くには、マルファがもてなしを一手に引き受けなければならなかった。神(しん)と真実とをもって神に仕え、神を礼拝することは「善き分」であり、幸いなる境地である。この境地は生前に始まれば、身体的修練と違い、死後も終わることはない。「善き分」は永遠の世にあって奪われず、永遠の世にあってこそ開花する。魂の獲得した「善き分」を、誰も取り上げることはできない。この「善き分」はいつまでも魂のものなのである。

   せっかく身体的修練を積んでいても、やり方に重大な欠陥があって然るべき実を結ばないことがよくある。その欠陥とは、無分別に修練し、身体的修練を必要以上に価値あるものと見なし、修練のための修練を積み、それが信仰生活のすべてであると誤解することである。そう誤解している人はとかく属神の修練を軽視し、属神の修練を積む人にそれをさせないようにする。マルファの場合もそうであった。マルファはこう思った。マリヤの行動は間違っていて常識を欠いている。自分の行動こそ価値があり、尊敬に値するのだ。憐れみ深い主はマルファの奉仕を拒まず、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とやさしく指摘された。その上、マリヤの実践こそ本格的な実践であると指摘された。そう指摘することにより、主はマルファの修練を高慢な思いから清め、謙虚な心で身体的奉仕をするように教えられた。実際、属神の知恵をまだ持たぬ人は、身体的修練をするときに「多くのことに思い悩み、心を乱し」がちである。神のために畑を耕しているとはいえ、「古き人」として耕しているので、畑には麦だけでなく毒麦も生える。このような人の考え方や行動はどうしても肉の思いに影響される。われわれは皆、主の指摘に然るべき注意を払い、身体を使って善行を積むときにあくまでも謙虚な心を持つようにしなければならない。主の御心を行う義務はあるが、弱くて罪深い身のゆえに然るべく御心を行うことができない。そうした僕として善行を積まなければならないのである。身体的修練を積む人は、より高度な修練があることを知っておくと極めて有益である。より高度な修練とは、身体的修練とは比べものにならないほど高遠な精神的修練であり、神の恩寵に包まれた修練である。どんなに立派な身体的修練を積んでいても、「精神的実践をしていなければ、聖神の賜物を受けることはできない」[*9]と、シリアの聖イサアクは述べている。修道士の偉大な教師はこう教えている。精神が内なる部屋の中で祈りを実践しなければ、身体的実践そのものは子を宿さない胎、乳を出さない乳房のようなものである。なぜなら、身体的実践では神の知恵に近づくことができないからである[*10]。これをマルファに見ることができる。マルファは自分のすることに熱中し、その大切さを確信していたため、主の指示を仰がず、何をすれば主に喜ばれるか聞こうとしなかった。それどころか、自分の考えを主張し、主にそのとおりにしてほしいと求めてきた。

   聖なる教会はなぜ、この福音を生神女の祭日に読むように制定したのか。生神女は心身ともにこの上なく崇高な奉仕を神人にささげたからである。生神女は主の「言(ことば)をことごとくその心に蔵(おさ)め」[*11]、幼子の頃から主の身に起こったこと、主に関係することを何でも「その心に蔵めて、これを守れり」[*12]と伝えられている。それを説明するために、教会は二人の姉妹が登場する福音にルカ福音次章の数節を追加している。それによると、ある女性が主の教えを聴いて「爾を孕(はら)みし腹と爾が哺(す)いし乳とは福(さいわい)なり」と声高らかに言ったとき、主は「然り、神の言を聴きてこれを守る者は福(さいわい)なり」とお答えになった[*13]。人間の考えに対する、神の答えである。人間の考えでは、生神女は神人を産んでこそ幸いだということだったが、神人は生神女をより高く評価し、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われた。生神女は他の誰よりも神人の言葉に耳を傾けて共鳴しそれを守ったので、そういう意味でも他の誰よりも幸いだったのである。ここでも、人間の考えに反し、精神的奉仕は身体的奉仕にまさると教えられている。

   憐れみ深い主はすべての人を招き、御自分に仕えさせてくださる。主に仕えるということは「古き人」を十字架につけ、「古き人」の肉の思いや罪なる欲望を捨てることである。それは苦労を伴うが、慰めを得ることでもある。この慰めは、善き良心と神の恩寵が与えてくれる。ハリストスの「軛(くびき)は易(やす)く」、「任(に)は軽し」[*14]。主に仕え、主を魂の家に迎え入れて休ませようとする人は、まず身体的修練を積まなければならない。つまり、身体を使った行動で福音書の戒めを実践しなければならないのである。人間の魂は身体に入るものとして創造された上、陥罪のゆえに身体に従属している。身体を使って悪いことをすれば、魂は罪なる病に感染し、諸慾に染まる。逆に、身体を使って善いことをすれば、魂の諸慾を取り除き、良い習慣や諸徳を養うことができる。人は怒りの衝動のままに行動すればするほど、怒りが習慣化し、やがて怒りの奴隷となる。私利私欲に駆られて行動すればするほど、金銭欲、貪欲、吝嗇(りんしょく)などに染まる。このように、諸慾はその人の行動を通じて魂に入ってくるのである。このことから、身体的修練の必要性が明らかになる。身体的修練は、諸慾に反した行動で諸慾を取り除き、福音書の教えに沿って心に諸徳を養うために必要不可欠である。神の言葉に基づき、分別ある身体的修練を積んでいけば、罪からかなり自由になり、多くの徳を身につけ、ハリストスに仕える者となることができる。こうした身体的修練に刺激され、やがて精神的修練が始まる。精神的修練を積んでいけば、「救い」を得ることができる。

   身体的修練は淡々と積んでいても熱心に積んでいても、精神的修練もなく神の言葉が求める属神の知恵も伴わなければ、有害なものである。このような身体的修練を積めばやがてうぬぼれ、隣人を軽蔑非難するようになり、自己欺瞞に陥り、心の中でファリセイとなり[*15]、神を離れ、悪魔に結ばれる。

   修練する人は豊かな神の恩寵に包まれると、豊かな精神的修練が始まりハリスティアニンとしての完全への道を歩み出す。こうなると、今まで見えなかった魂の罪深さが見えてくる。目から鱗が落ち、今まで見えなかった果てしない、厳かな永遠が見えてくる。今まで遠い未来にあった死が近くなり、直ぐそこにあるように見えてくる。今まで終わりのないものに見えていた人生は短縮してごく短いものに見え、過去の人生は昨夜の夢、残りの人生は臨終前の一時間に見えてくる。今までになかったような呻吟や涙、祈りが胸中に生まれてくる。祈りと涙は胸中深くに生まれ、口ではなく頭と心で唱えられ、天に昇っていき、祈る者を救世主の足もとにひれ伏させておく。魂は罪を告白し、限りなく偉大な神を讃美しつつ、至善の神の手に導かれて完全の境に入る。神は人間を創造し、再創造してくださる方なのである。「我が霊(たましい)よ、主を讃め揚げよ、彼がことごとくの恩を忘るるなかれ。彼は爾が諸の不法を赦し、爾が諸の疾(やまい)を療(いや)す、爾の生命(いのち)を墓より救い、憐れみと恵みとを爾に冠(こうむ)らせ、幸福を爾の望みに飽かしむ、爾が若復(わかがえ)さるること鷲(わし)の如し」[*16]。鷲のようにあなたの永遠の若さを新たにしてくださるのは、御自分のうちに人間の本性を新しくし、御自分によって人間を新しくしてくださる全能の救世主である。アミン。



[*]    ルカ54端 10:38-42、11:27-28。
[*1]    イオアン11:11。
[*2]    ルカ10:41-42。⇒「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41-42)。
[*3]    福フェオフィラクトをはじめ、多くの聖師父がそう解釈している。
[*4]    シリアの聖イサアク、56説教。「身体上の働きの心霊上の働きに先だつは塵土(じんど)のアダムに吹き入れられたる生気に先だちし如し。身体上の働きを求めざる者は心霊上の働きをも有する能(あた)わず、何となれば後者の前者より生ずるは、麦の穂の麦粒より生ずる如くなればなり」(堀江復訳)。
[*5]    ルカ10:39。⇒「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(ルカ10:39)。
[*6]    第210問。
[*7]    「主は神にして、我等を造り、我等彼に属して、その民、その草苑(くさば)の羊なるを知れ」(聖詠99:3)。⇒「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)。
[*8]    「我は真の葡萄の樹、我が父は園師(にわづくり)なり」(イオアン15:1)。⇒「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネ15:1)。
[*9]    シリアの聖イサアク、56説教。「心霊上の働きを有せざる者は霊神上の賜をも奪わるるなり」(堀江復訳)。
[*10]    シリアの聖イサアク、58説教。ソラの聖ニールの引用による。
[*11]    ルカ2:51。
[*12]    ルカ2:19。
[*13]    ルカ11:27-28。⇒「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』 しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」(ルカ11:27-28)。
[*14]    マトフェイ11:30。⇒「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)。
[*15]    フィロカリア、シナイの聖グリゴリイ、19章。
[*16]    聖詠102:2-5。⇒「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩編103:2-5)。