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第2章

人は神の審判で福音書の戒めによって裁かれる


我々、正教のハリスティアニンのために神によって定められた審判の際、我々は福音書の戒めによって裁かれる。この審判では、我々の永遠の行く末が決定される。審判は、それぞれのハリスティアニンが死の直後に受ける私審判と、我が主イイスス・ハリストスの再臨の際に万人が受ける公審判とがある。両方の審判において神が臨席し、審判する。私審判の際、神は光の天使と堕天使によって審判を行うが、公審判の際には、人となった「言」によって審判を行われる(マトフェイ福音25章、イオアン福音5章22節、27節)。審判の形がこのように多様化している理由は明らかである。人間は、自由意志によって堕天使に服従した。したがって、それぞれのハリスティアニンは贖罪の力を借りてどこまで悪霊との交わりを絶ったかに応じ、まず堕天使との間できまりをつけねばならない。公審判では、堕天使も、堕天使に誘惑された人も、神の威厳に対して罪を犯した者として裁かれる。人性を受け、人類を贖い、堕落した万人が救いを得るべき神の言、神は、堕落し、悔改によって自分を清めてこなかった者を含め、万人を審判される。両方の審判の際、福音書という法典、法令集に基づいて審理が行われ、判決が下される。「我を拒みて、我が言を納れざる者には、之を定罪する者あり、即ち我が語りし言なり、此れ末の日に於て彼を定罪せん。蓋し我は己に由りて語りしに非ず、即ち我を遣わしし父は、彼我に言うべき事、語るべき事を命ぜり。我は其の命の永遠の生命なるを知る」(イオアン福音、12章48〜50節)。主の言葉から明らかなように、我々は福音書に基づいて審判される。また、福音書の戒めを行おうとしない者は、事実上、主を拒むのである。兄弟よ、福音書の誡めを行う者となるよう、力を尽くそう! 死期はいつ迫るかわからない。我々は、思いもよらない時に、期せずして審判に呼び出されるかもしれない。福音にしたがって生きることによって、永遠の世に移ることに備えた者は福(さいわい)なるかな! 怠る者、不注意な者、自分勝手な者、自惚れる者は禍なるかな! 悪魔と絶縁していない者は禍なるかな! 神と縁を結んでいない者は禍なるかな! 神と縁を結んでおいて、その縁を切った者はさらに禍なるかな!


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