福音書を学び、福音書の誡めを行うことに基づいた生活は、この上なく硬い岩の上に基づいている。このような生活を送る者は、事情によってどのような境遇に置かれても、行を修める場が無くなることはない。その行、戦い、上達が他人には気づきにくくわかりにくいが、彼は絶えず行を修め、絶えず戦い、絶えず上達していく。彼は、どのような患難や試練に見舞われても、決して倒れることはない。主は「凡そ我が此の言を聞きて之を行う者は、我之を磐の上に其の家を建てたる智き人に譬えん、雨降り、河溢れ、風吹きて其の家を撞ちたれども、倒れざりき、磐の上に基づけたればなり」(マトフェイ福音、7章24〜25節)と言われた。ここでは、生活、心の姿勢が「家」に喩えられている。この「家」は、ハリストスの言葉にみなぎる、限りない神聖な力によって、この上なく頑丈なものとなる。ハリストスの誡めを行うことが心を堅固にするほど、他の手段や方法が心を堅固にすることができないことは明らかである。ハリストスの力は主の誡めの中で働くからである。右の言葉に続いて、主は次の言葉をも付け加えられた。「凡そ我が此の言を聞きて之を行わざる者は、砂の上に其の家を建てたる愚かなる人に譬えられん、雨降り、河溢れ、風吹きて其の家を衝きたれば、倒れたり、且つ其の倒れは大いなりき」(マトフェイ福音、7章26〜27節)。ある一種類の身体修行、または複数の修行、ときには大いに骨が折れ、大いに人目につく修行を生活の土台に置くが、福音書の誡めには然るべき注意を払わない者は、一見善い生活を送っても、その生活はたやすく崩れるものである。福音書の誡めを一切無視し、公然と誡めを破り、少しも誡めを大切にしない修行者もよくある。このような修行者は、思いがけない試練に遭ったり、人生に予期せぬ変化があったりすると、容易にぐらつくばかりでなく、まったく精神的に頓挫することになる。このような頓挫が、福音書で魂の「家の大いなる倒れ」と呼ばれたのである。ひとりで荒野に隠遁し、すっかりこの隠遁に自分の上達と救いの望みをかけた行者を例にとってみよう。この行者は、突然、事情によって隠遁生活をやめ、にぎやかな人里で生活することを余儀なくされたとしよう。福音書の誡めによって心を堅固にしてこなかった行者は、必ず人間社会にはびこる誘惑の影響を大いに受けるであろう。それもそのはずである。彼には、外面的な隠遁を除けば、守ってくれる力がなかったのである。彼は、隠遁を失うことですっかり支柱を失い、必然的に別の外面的な印象の力に屈することになる。これを言っているのは、決して隠遁生活をけなすためではない。隠遁生活は、誘惑や注意散漫から人を守り、特に福音書の誡めを学び行うことに役立つものである。これを言っているのは、荒野に隠遁した行者も、「神の能(ちから)及び神の智慧」(コリンフ前書、1章24節)であるハリストスを魂に入れてくれる福音書の誡めを学び行うよう、特に努力するためである。真のハリストス教、真の修道は、福音書の誡めを行うことにある。誡めを行わなければ、外面がどうであろうと、ハリストス教も修道もないのである。「義人は地を嗣ぎ、永く之に居らん」。聖書のいう「義人」とは、決して外見だけ義に見える自分の意志ではなく、真に義であり、唯一の義である神の意志を忠実に行おうとする人である。「地を嗣ぐ」とは、自分の心、自分の肉、自分の血を支配するようになることである。このように「地を嗣ぐ」のは、神の義を行う者のみである。「義人の口は睿智を言い、其の舌は義を語る。其の神の法は其の心に在り、其の足は撼かざらん」(36聖詠29〜31節)。