何か善い考えが心に浮かべば、しばらくじっとするがよい。その考えを思慮せず、軽率に実行してはならない。何か善い意欲を心に感じれば、やはりしばらくじっとするがよい。あえて意欲に流されてはならない。福音書を参照し、自分の善い考え、善い意欲が主の至聖なる教えに合っているかどうか見極めるがよい。間もなく、福音の善と堕落した人性の善がまったく違うものだということがわかるであろう。堕落した人性の善には悪が混ざっており、ゆえに善そのものも悪となった。おいしくて身体によい食べ物に毒物が混ざれば、その食べ物は毒となるからである。堕落した人性の善を行わないように注意するがよい! この善を行えば、あなたは自分の堕落を発展させ、自分の内に自尊心や高慢を増長させ、悪霊によく似てくるであろう。また、福音の善を行えば、神人の真の弟子、忠実な弟子として、神人に似てくるであろう。「己の生命(いのち)を愛する者は、之を喪わん、己の生命を斯の世に悪む者は、永生の為に之を護らん」(イオアン福音、12章25節)と、主は言われた。「我に従わんと欲する者は、己を捨て、其の十字架を負いて我に従え。蓋し己の生命を救わんと欲する者は、之を喪わん、我及び福音の為に己の生命を喪わん者は、之を救わん」(マルコ福音、8章34〜35節)。主は、堕落した本性を完全に捨て、それが起こさせる意欲を憎むように命じられている。それも明らかに悪い意欲だけでなく、善いように見える意欲でもある。堕落した本性の義に従うことは、大いなる禍である。そのような人は、福音を捨て、贖罪主を捨て、救いを捨てるのである。「人若し己の生命を憎まずば、我が門徒と為るを得ず」(ルカ福音、14章26節)と主は言われた。聖大ワルソノフィイは、右に引用した主の言葉を説明し、次のように述べている。「人が己を捨てるとは何か。自然な(人の本性に固有の)欲望を捨て、主に従うことに他ならない。そもそもここで主が言っているのは、不自然なことではなく、自然なことである。不自然なことだけを捨てれば、まだ神のために自分自身のことを何も捨てていないことになるのである。不自然なことは、その人に固有のことではないからである。また、自然なことを捨てた人は、常に使徒ペトルと共に『我等一切を捨てて、爾に従えり、然らば我等何を得んか』(マトフェイ福音、19章27節)と言い、主の福なる声を聞き、永遠の生命を継ぐであろうと約束される(マトフェイ福音、19章29節)。金持ちでもないペトルは何を捨て、何を誇っていたか。自分の自然な欲望を捨てたことではないか。人は、肉に対して死に、霊によって生きなければ、魂がよみがえることはできないのである。死人が自然な欲望を抱かないように、肉に対して霊的に死んだ人も自然な欲望を抱かないものである。あなたは、肉に対して死んだなら、どうして自然な欲望を抱くことができようか。なお、霊的に上達しておらず、心がまだ幼児なら、教師の前にへりくだり、その憐れみに満ちた訓示を仰ぎ(140聖詠5節)、どんなに善いことに見えても、何事も相談せずに実行してはならない。なぜなら、悪鬼の光はやがて暗闇と化すからである」(聖大ワルソノフィイ、59答)。堕落した人性の光についても、まったく同じことが言える。この光に従い、自分の内にそれを発展させることは、すっかり魂を暗くし、完全に魂をハリストスから疎外させる。ハリストス教に無縁な者は、神に無縁である。「凡そ子を認めざる者は、父をも有たず」(イオアン第一公書、2章23節)、神を認めないのである。
世の中の繁栄を誇る今の時代、ハリスティアニンと自称し、多くの善を行っていると宣言する大半の人は、福音の義を軽蔑して捨て、堕落した本性の義を行おうとする。これらの人は主の宣告を聞くがよい。「斯の民は口にて我に近づき、唇にて我を敬えども、其の心は遠く我に離る、彼等は人の誡めを教えと為して、教えて、徒に我を尊む」(マトフェイ福音、15章8〜9節)。人性の義を行う者は、自尊心、自己満足、自己欺瞞に満ちている。彼は自分のこと、自分の行いのことを宣伝・吹聴し、主がそれを禁止されたことを無視している(マトフェイ福音、6章1〜18節)。その義についてごく正当な反論を口にしようものなら、彼はその人を憎み、報復する。彼は、自分が地上・天上の褒美を受けるにふさわしい者であると信じて疑わない。それにひきかえ、福音書の誡めを行う者は、常に深い謙遜の思いを抱いている。彼は、至聖なる誡めの崇高さ、清純さに自分の誡めの実践を照らし合わせ、その実践が極めて不十分であり、神に適っていないと常に認める。彼は、自分の罪のため、悪魔との交わりを絶っていないため、万人共通の堕落のため、自分自身が堕落状態にとどまっているため、さらに誡めを行うことが不十分であったり誤りが多いため、自分がこの世でも永遠の世でも罰に値すると考えている。彼は、神に仕える者が地上の旅の間に患難によって神から教育されていくことを知り、神の摂理によって患難が身にふりかかる度、甘んじて神の意志に服従する。彼は自分の敵を憐れみ、悪鬼に誘惑される兄弟として、一体の身体の中で霊を病む一部として、自分の恩人として、神の摂理の道具として、敵のために祈る。