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第8章

陥罪した本性と福音書の戒めは互いに対抗し、戦い合うもの


神が聖なる福音書で我々に伝えてくださる神の知恵、神の意志、神の義を自分の内に植え付けるため、自分の思慮、自分の意志、自分の義、すなわち堕落した本性の思慮、意志、義を捨て、また常に捨てようとするなら、堕落した本性は、あなたの内に福音に敵対し、神に敵対し、激しく戦い始めるであろう(聖大マカリイ、21講話)。堕落した本性には、堕落した霊(悪霊)が協力するであろう。このようなことで気を落としてはならない。粘り強く戦って、あなたの意志が真剣であることを証明するがよい。倒されれば、起き上がるがよい。だまされて武器を奪われれば、また武器を身につけるがよい。敗戦すれば、また戦いを挑むがよい。あなたは、自分の内に自分自身の堕落を見、全人類の堕落を見ることがこの上なく有益である。あなたは、自分の心や思いでその堕落を見極め、自分の知恵の弱さ、自分の意志の弱さを見極めることがどうしても必要である。自分の堕落が見えることは霊的直観である。自分の弱さが見えることは霊的直観である(シリアの聖イサアク、61説教)。その際、直観するのは人の知力である。直観をもたらしてくれるのは、洗礼によって我々の内に植え付けられた恩寵である。恩寵の働きによって知力の盲目が解かれ、行を修めつつある知力は、今まで行を修めずに見えなかったことがはっきりと見えるようになり、思いもよらなかったことを悟る。人の堕落が見える直観には、他の霊的直観が伴う。すなわち、堕落した霊(悪霊)が見える直観である。この直観もまた〔心眼による〕霊的直観であり、恩寵の賜である(19聖詠12節)。その際、直観するのは知力〔心眼〕である。主の誡めを忠実に行えば行うほど、心眼は悪霊によってもたらされる思いにおいて少しずつ悪霊を見分けるようになり、人が不幸にも悪霊と交わり、悪霊に隷属している状態がわかり、人を滅ぼそうとする悪霊の姦計や働きを見破るようになる。このような霊的直観には、感覚的なことは何もない。霊的直観をもたらしてくれるのは、福音書の誡めを忠実に行い、罪なる思いと戦うことである。このような直観を体験していない者は、それがどのようなものか全く理解することができず、それが存在することさえ知らない(ダマスカスの神品致命者ペトル「八種類の知的実見について」、「階梯」27章26節)。ハリストスの行者が自分の堕落と戦い、堕落した悪霊と戦う戦争は、聖神によって聖詠経で素晴らしく描かれている。初代教会の修道士は聖詠経を暗記し、聖神の言葉を用いて、諸慾の穴から救い出してほしい、敵(悪魔)の顎から救ってほしいなどと祈ったものである。


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