前述のことからわかるように、新人修道士の主な自室修業は福音書をはじめ新約聖書を読み学ぶことでなかればならない。新約聖書全体は、同じ福音の教えを含むものとして、「福音書」と呼んでもよい。なお、新人はまずマトフェイとルカによる福音書に記された主の誡めを学ばなければならない。マトフェイ伝とルカ伝の誡めを学び、同時に誡めを行いで実践することによって、新約聖書を構成する他の書もよりわかってくるであろう。福音書を読むとき、ブルガリアの大主教福フェオフィラクト作の福音書註解を読まなければならない。福フェオフィラクトの註解を読むことは不可欠である。それは正しく福音書を理解し、ひいては忠実に福音書を実践することに役立つからである。また、教会の規則では、聖書を勝手に解釈してはならず、聖師父が教えるとおりに解釈しなければならない。福フェオフィラクトの註解は、教会によって承認され、使用されているものである(規律正しい共住修道院はどこも、毎日早課において、福フェオフィラクト著註解書の中から、その日の福音経を説明する個所を朗読することになっている)。福音書を理解するにあたってこの聖師父の註解を導きとすれば、我々は聖なる教会の聖伝を保持するであろう。我々の時代、ヴォロネジの聖ティホンの著作が特に有益である。聖ティホンの著作は特定の目的のために書かれたものではなく、在俗の修行者にとっても、共住修道士にとっても、国費修道院に住む修道士にとっても、独りで住む静寂者にとっても素晴らしい手引きとなることができる。神の恩寵は、特に現代のニーズに合った著書を聖ティホンに書かせた。その著書では福音書の教えが説明されている。福音書の誡めにしたがって生活することは、その修道院の規則や規律がいかなるものであっても、どこの修道院でもできることである。なお、いま言ったことは、当否を問わず、自分の住む修道院の規律について不満を抱いている人を励まし、慰めるために言ったのである。一人一人の修道士は、環境ではなくむしろ自分自身の内に自分の不満の原因を求めたほうが適切である。自責は心を安らかにしてくれるものである。だからといって、自分から修道院が選べる場合、整備の行き届いていない修道院を選ばず、よく整備された修道院を選ぶことが不適切なわけではない。ただし、誰もが修道院を自由に選べるとは限らない。
聖師父の各種著作が提示する方向性に流されず、福音書の誡めを学び行うことを人生の指針とした上で、多大な労苦を伴うが喜びもないわけではない修道の行を詳細に知るため、聖師父の著作を読み始めてもよい。聖師父の著書を読むにあたって、順序を守る必要があり、決して急いで読んではならない。まず、共住修道士のために著された書物を読むべきである。その書物とは、克肖なるアウワ・ドロフェイの訓戒、克肖なるフェオドル・ストゥディトの啓蒙講話、克肖なる大ワルソノフィイ及び預言者イオアンの霊的生活の手引き問答(第216問から。第1〜215問の答えは主として隠遁者向けのものであり、新人にはあまり合わないものである)、階梯者聖イオアンの講話、シリアの聖エフレムの著作、ローマの聖カッシアンの共住規定と問答である。それから、相当な年月を経た後、聖師父が静寂者のために著した書物をも読んでもよい。すなわち、フィロカリア、スキート砂漠の聖師父言行録、克肖なる隠修者イサイヤの講話、シリアの聖イサアクの説教、苦行者マルコの講話、聖大マカリイの講話、新神学者聖シメオンの著作など、修行に関する著書である。ここに列挙した書物は、行(修行)の書物の部類に入っている。なぜなら、その書物には修道士の行(修行)について述べられているからである。階梯者聖イオアンは「あなたは修行生活を送っているのだから、修行の書物を読むがよい」と述べている(27章78節)。修行の書物は、修道士の行、特に祈りを修めるように修道士を刺激する。その他の聖師父の著書を読むことは、静思や瞑想を起こすものである。なお、自分を諸慾から十分に浄化していない修行者には、それは時期尚早なことである(新神学者聖シメオン、シナイの聖グリゴリイ)。