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聖イグナティ・ブリャンチャニノフ略伝



   1807年2月5日(露暦)、ロシアの貴族ブリャンチャニノフ家の長男として、同家の領地、ボログダ県グリャゾベツキー郡ポクロフスコエ村に生まれる。聖名はディミトリイ。幼い頃から福音書や聖人伝を読んだり、ひとりになって祈るのが好きで、15歳のときに静寂の境地を体験する。

   修道士を志望するが、父の意向に従い、1822年、首都サンクトペテルブルクの軍事技師を養成する仕官学校に入る。勉学の傍ら聖師父の著書を熱心に研究し、世を捨てて修道士になる決意を固め、心の祈りを実践する。1826年、同校を首席で卒業し、陸軍少尉に任命される。卒業直後、修道院に入ろうとして退官届を出すが、青年ディミトリイをひいきにしていた皇帝ニコライ1世に引き止められ、ロシア帝国北西部の要塞へ赴任することに。在任中、重病にかかってようやく退官を認められる。長老レオニド(後のオプチナ修道院の聖レフ)を師と仰ぎ、1827年、見習いとして聖アレクサンドル・スイルスキー修道院に入る。その後、オプチナ修道院をはじめロシア各地の修道院に住み、修練を積む。

   1831年6月、ボログダの主教ステファンから剪髪式を受けて修道士となり、名をイグナティと改める。翌月、修道司祭に叙聖され、ボログダ県内のロポトフ修道院の長となる。人里離れた場所での隠修生活を切望するが、1833年末、皇帝に呼び出されてサンクトペテルブルク近郊の聖セルギイ修道院を任され、掌院に昇叙。衰退する同修道院を物心ともに復興させ、約24年にわたって修道院長を務めた。1857年10月、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂で主教に叙聖され、翌年1月、カフカス及び黒海の主教としてスタブロポリ市に到着。新設されて間もない同主教教区の振興・運営に当たった。

   病弱な体質で生涯病に苦しむが、1861年にはいよいよ病気のために引退し、ボルガ川沿岸の奇蹟者聖ニコライ修道院に隠居。悔改と祈りを中心とした遁世生活を送りつつ、書いてきた文章をまとめて出版用に編集するなど文筆活動に従事し、1865年から1867年にかけて全4巻の著作集を上梓した。1867年4月の復活祭に最後の聖体礼儀を執り行い、同月30日(露暦)に永眠。

   1988年、ロシア正教会により成聖者として列聖され、「敬神家、多数の書を著した作家、高徳の修道士、信仰生活の教師」と評価された。さらに、聖イグナティの著作は「聖師父の教えの本質を深く掘り下げ、聖師父の精神を受け継いでおり、現代の信徒にも読みやすくわかりやすいもの」と評価された[*1]。記憶日は5月13日。不朽体はヤロスラブリのトルガ女子修道院に安置されている。


トロパリ、第8調

   正教の擁護者、悔改と祈りの秀逸なる実践者及び教師、神の息吹に満ちたる主教品の飾り、修道士の栄え及び誉れよ、爾は爾の書によりて我等衆人を諭せり。属神の笛、神智なるイグナティよ、爾の心に宿りしハリストス神言(かみ・ことば)に祈りて、我等に終わりの前(さき)に悔改を賜わんことを求め給え。 [*2]

コンダク、第8調

   成聖者イグナティよ、爾は地上の人生を歩めども、絶えず永遠の生命(いのち)の法を見、これを弟子等に教えて万言を費やせり。聖者よ、我等もこれに従わんことを祈り給え。 [*3]



[*1]  「列聖に関するロシア正教会全国公会決議文」(1988年6月、モスクワのダニーロフ修道院において総主教ピーメンをはじめとするロシア正教会全国公会出席者により採択された)。
[*2]   試訳。このトロパリの由来については、聖イグナティの姪ジャンドル姉体験談をご参照ください。
[*3]   試訳。